2015年9月27日日曜日

8億人が感動した映画「君よ憤怒の河を渡れ」と名優 高倉健・中野良子

 「法律だけでは裁いてはいけない罪がある。法律だけでは裁けない悪がある。」

 これは、高倉健さんが主演の名作映画「君よ憤怒の河を渡れ」の中の名言です。
 今回は、中国で8億人が感動したというこの映画と、主演の高倉健さんのエピソ-ドを中心に紹介します。

 映画「君よ憤怒の河を渡れ」(きみよふんどのかわをわたれ)は、1976(昭和51)年に公開された日本映画で、監督は佐藤純彌さん、制作は大映の永田プロです。
 
 あらすじを紹介します。

 「代議士の不審死事件」を捜査していた東京地検の検事・杜丘冬人(高倉健)は、突然、強盗傷害容疑の冤罪をかけられます。
 杜丘検事は、冤罪を晴らすために逃走し、証拠を探しますが、逆に殺人の疑いまでかけられてしまいます。

 犯罪の痕跡を追って北海道の様似町(さまにちょう)へ飛んだ杜丘は、山中でクマに襲われていた遠波真由美(中野良子)を救い、二人は恋に落ちます。
 遠波真由美の父のセスナ機を借りて、杜丘は飛行機で関東へ戻り、捜査線をかいくぐってキーパーソンがいる東京の精神病院へ偽装入院します。
 
 思考回路を麻痺する新薬を投与されながらも杜丘検事は耐え、「代議士の不審死事件」と「冤罪」の黒幕をつきとめ、ついには自らの冤罪をはらします。

 最初に紹介したセリフは、最後に冤罪を晴らしたあとの杜丘のセリフですが、実は、その後に続く言葉もいいセリフがあります
(検事の仕事に戻れと言われて) 私は、追われてきてわかったことがある。もう人を追うことはしないことにした。」
   冤罪で追われる立場になってみて、人を追いかける職業のむなしさに気づいた杜丘検事は。検事を辞める決意をした瞬間でした。

 もう一つ、私がこの映画の中で好きなセリフは、初めてセスナを操縦して北海道から東京に向かう社丘に、真由美の父の遠波善紀(大滝秀治)が言った次の言葉です。
 「男には、死に向かって飛ぶことが必要な時もある。」
 特攻ということではなく、死ぬ気で正義を貫く杜丘の勇気が、感動的です。

 ネットでは、「真由美を襲うクマが、ぬいぐるみでしょぼい」との指摘もありますが、それぐらいは目をつぶってください。
 この映画は高倉健さんの代表作の一つで、けだし名作だと思います。

<写真 北海道様似町>



 実は、この映画の反響は、日本以上に中国がすごかったんです。
 1979(昭和54)年に、中華人民共和国で『追捕』というタイトルで公開され、中国の「文化大革命」後に初めて公開された外国映画ということもあり、大変な人気を呼びました。
 一説には、8億人が見たとも言われています。

 権力に負けない意志と行動力をもち、耐えて耐えて耐え抜いて、最後に勝った杜丘検事の行動が、独立戦争と文化大革命を経験し、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の国でもある中国の人たちの、深い共感を呼んだのだと思います。

 もちろん、主演の高倉健さんとヒロインの中野良子さんは、中国では今も人気が非常に高い俳優です。
 ここからは、この二人の名優と映画「君よ憤怒の河を渡れ」の話をします。

 まず、ヒロインの中野良子さん(1950年~ 愛知県出身)は、中国で公開された「追補」のポスターで最も大きく写真が使われるなど人気が高く、この映画の公開以降、70回以上も中国を訪問し、中国各地で100回以上、講演を行っています。

 さらに、1984年の中国での「日中首脳会議」では、ゲストキャスターにも起用され、その後、外務省からの依頼で、世界中で講演を行うようになります。

 1995(平成7)年には、中国に「秦皇島中野良子小学校」が建設されます。さらに、1999(平成11)年には、ニューヨーク市の公立学校の課外授業に「中野良子の地球の志」が採用されます。
 中野良子さんにとっては、「君よ憤怒の河を渡れ」の中国での大ヒットが、人生の大きなターニングポイントになったのは間違いないと思います。

<「君よ憤怒の河を渡れ」の中国版「追補」のポスター>



 一方、主演の高倉健(1931年~2014年、福岡県出身)さんも、日本と同じく中国でも、「神俳優」と呼ばれるほど、人気と尊敬を集めています。

 2006年には中国映画「単騎 千里を走る」で主演し、北京電影学院の客員教授にも就任しています。
 2014年11月に高倉健さんが亡くなられた時には、中国のマスコミでも大きく取り上げられ、惜しむ声がたくさん上がりました。

 高倉健さんについては、たくさんの逸話がありますが、その中から「君よ憤怒の河を渡れ」についてのエピソードを紹介します。

 この映画が作られた1976(昭和51)年は、高倉健さんが「任侠映画以外にも出たい」と東映を退社した年で、「君よ憤怒の河を渡れ」は、フリーになった第1作です。

 それだけに、高倉健さんの意気込みは凄く、北海道ロケの最中に健さんの実のお父さんが亡くなったときにも、帰郷しませんでした。

 この時、健さんの代わりに、高倉さんの実家を訪れ父の葬儀に参列してくれた東映の高岩淡さん(のち社長・会長)に対して、健さんは非常に恩義に感じました。
 後日、高岩さんのお母さんが亡くなったときには、通夜の日の夜中に高倉健さんがそっと来て、縁側の外の石段に線香をあげて帰って行ったそうです。
 高倉健さんは、映画のイメージどおり、「義理と人情を重んじる男の中の男で、人と人との心の繋がりを何よりも大切にする人だった」と、関係者が口を揃えておっしゃっています。

 高倉健さんの話は、また別の機会にも紹介してみたいと思っています。

 今回の最後は、高倉健さんが、徳間書店の創業社長で大映の社長も務めた徳間康快さんが、日中映画交流の映画祭に、高倉健さんと参加していた時の中国のホテルで話です。

 行事が終わったあとのホテルで、コーヒーを飲みながら、高倉健さんがモンゴル相撲について、こんな話をしました。
 「モンゴルの相撲は実力があるから、若い相撲取りを日本に連れてきて、相撲部屋に入れれば大いに期待できますよ。」


 ちょうど、今日(平成27年9月27日)の「大相撲秋場所千秋楽」の優勝決定戦では、モンゴル勢同士の優勝争いで、横綱・鶴竜が大関・照ノ富士を倒しました。

 今は、モンゴル出身力士全盛の大相撲ですが、横綱・朝青龍などが出るずっと前に、高倉健さんがモンゴル相撲の実力を見抜いていたのは、すごいですね。
  映画の話に戻ります。

  「君よ憤怒の河を渡れ」のラストシーンでは、検察庁を出て、行くあてもなく歩き出す杜丘(高倉健)に、真由美(中野良子)が聞きます。
  「一緒に行ってもいい?」
  高倉健は、「自分、不器用ですから」とは言わずに、黙って中野良子の肩を抱き、二人は東京の街の雑踏の中に、風のように消えて行きます。

  映画のタイトル「君よ憤怒の河を渡れ」というのは、復讐を完遂することではなく、その後の「街の風となって消えてゆく二人」のことを言っているのではないか。
 そう感じるのは、私だけでしょうか?

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