2015年9月19日土曜日

歴史シミュレーション「安保法案は太平洋戦争を止められた?」 

「 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない。」
(『ユネスコ憲章前文』)

 2015(平成27)年 ほど、日本中の一人一人が「戦争と平和」について、考え・議論している年は、平成になって初めてだと思います。

 国会はもちろん、若者も、会社員も、OLも、ママたちも、そして老人まで、「戦争と平和」について考える人が日本中にあふれているのは、すごくいいことだと思います。

 ただし、安保関連法案の成立の有無、その後の運用の仕方によっては、日本の歴史の大きなターニングポイントになる可能性が強いのが、2015年だと思います。


「 第9条第1項 
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争、 武力  による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 これは、勿論、「日本国憲法9条第1項」です。

 この憲法9条に反している(違憲)かどうかが大きな議論になっているのが、「安保関連法案」です。
 政府・与党は、「安保関連法案」を、戦争の危険性を低下させる「平和安全法制」だとして、今国会で可決成立させる構えです。

 一方、民主党などの野党は、「あらゆる手段」で反対すると表明していますし、安保法案に反対する学生団体「SEALDs(シールズ)」などの市民団体は、安保関連法案を「戦争法案』「憲法違反」だと呼び、反対運動(デモなど)を起こしています。

<写真 安保関連法制 反対デモ>



 正直なところ、「安保関連法案」は。「平和安全法制」なのでしょうか?
 それとも、「戦争法案」なのでしょうか?

 この疑問について考えるために、太平洋戦争直前の1941(昭和16)年の日本を舞台に、「歴史シミュレーション」をしてみたいと思います。
 テーマは、「安保関連法案で、太平洋戦争は回避できたか?」です。

 まず、中学の教科書で、「太平洋戦争の開戦のいきさつ」を見てみましょう。

「 1939(昭和14)年に、周辺諸国を併合し領土獲得を進めてきたナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まりました。

 当初ドイツ軍は勝利を収め、1940年にはフランスを征服しました。
 この快進撃を目の当たりにした日本は、急速にドイツに接近し、1940年9月に「日独伊三国同盟」を締結しました。
 これはヨーロッパのドイツ・イタリアと手を組み、イギリスなどを牽制する目的でしたが、逆にアメリカ・イギリスとの対立関係を深めることになりました。

 日本は、1941年にソ連(現ロシアなど)と「日ソ中立条約」を締結し、日独伊三国同盟にソ連を加えようとしましたが、ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まったことで、その構想は破綻しました。

 日中戦争の長期戦打開のために、日本は、1941年に仏領インドシナ(現:ベトナム)に進駐しますが、米英から石油禁輸などの強硬な経済制裁を受け、日米間の関係悪化は決定的になりました。
 このときに形成された対日経済包囲網を、「ABCD包囲陣」もしくは「ABCD包囲網」といいます。

 日本はアメリカと交渉を行い、石油禁輸の解除を求めましたが、アメリカからは、「ハル・ノート」と呼ばれる強行案(中国大陸からの撤退など)が提示されます。
 日本は、その内容を見て対米開戦を決意します。

 そして、1941(昭和16)年12月に、日本とアメリカ・イギリスとの間に「太平洋戦争(大東亜戦争とも言う。)」が勃発します。

 太平洋戦争の開戦の理由としては、「ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網」や「ハル・ノート」で、石油禁輸や中国・インドシナからの撤退要求をされた日本が追い詰められたというのが一般的です。


<中学社会「歴史」の教科書>



 ここで問題です。
 もしも、この時代に日本に「安保関連法案」があったら、戦争は回避できたのでしょうか?

 「安全保障関連法案」に盛り込まれた集団的自衛権を使う際の前提になる3条件に、当時の状況をあてはめてみましょう。

 まず1番目の条件です。
(1) 密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。(いわゆる「存続危機事態」)

 1941年12月時点で、「日本と密接な関係のある他国」は、当然、「三国同盟」を結んでいるドイツとイタリアになります。
 1939年からドイツ・イタリアとイギリスなどの間では、武力衝突(第2次世界大戦のヨーロッパ戦線)が続いていますので、第1条件の前半部分はクリアされます。

 次に、「存立危機事態」の要件を満たすかどうかについては、内閣の判断となります。
 「ABCD包囲網」や「ハルノート」は、資源が少なく領土拡大路線をとっていた当時の日本にとって、「存続危機事態」だと、内閣が認定すれば第1条件はクリアできます。

 続いて2番目の条件は、
「(2)我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない。」です。

 これも内閣の判断ですので、「インドシナや満州からの撤退」という手段が容認できないと、内閣が判断すれば、第2条件も満たすことになります。

 最後の3番目の条件は、
「(3)必要最小限度の実力行使にとどまる。」です。

 これも、客観的な尺度はないので、内閣が「必要最小限度」と判断すればいいことになります。

 以上、結論を言えば、「1941年12月時点で安保関連法案があっても、太平洋戦争は起こっていた。」ということになります。


 それでは、日本国憲法9条の「専守防衛」のもとでの「太平洋戦争回避」は、どうでしょうか。

 もし、1941年の日本が、憲法9条の「専守防衛」に徹していたら、アメリカからの宣戦布告は避けられたのでしょうか?

 実は、時のアメリカ大統領ルーズペルトは、日本と開戦し、日本の同盟国のドイツやイタリアにも宣戦布告して、窮地に立っていた盟友・イギリスを助けたかったのです。

 ところが、アメリカ国内の世論は参戦に否定的でした。
 1941(昭和 1 6)年 ) 1 月 30 日に実施された 「ギャラップ社の世論調査」によれば、 米国民の 88 パーセントは米国の欧州戦争介入に 反対でした

 アメリカは、国内世論を戦争賛成にもっていくために、日本から戦闘行為が始まることを、待っていたという証言が残っています。
 日本の参戦行動を挑発するために、「ABCD包囲網」や「ハルノート」を作り、ハワイ奇襲も事前に情報を持っていたと言われています。(真珠湾奇襲の時、アメリカ軍の空母が1隻もいなかったのは、偶然ではなかったのです。)

 ですから、もし、日本が先制攻撃をせず、日本国憲法9条の「専守防衛」に徹していたら、大儀銘文がないアメリカのルーズベルト大統領は、参戦できなかったか、参戦できても国内の支持を得ることはできなかったのではないかと思われます。

 もちろん、日本もインドシナ(ベトナム)から撤退や生活物質の困窮など、日清戦争のあとの三国干渉時のような「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を強いられたでしょうが、少なくても数百万の人命が助かったはずです。

 「歴史シミュレーション」の結論は、安保関連法案は「太平洋戦争参戦」は止められないが、日本国憲法9条の「専守防衛」を守れば戦争は避けられた可能性が高いということになります。


<写真 安保関連法案 反対集会>




 2015年9月の日本に戻ります。
 
 「安保関連法案」は、国会を取り囲む数万人の反対デモの中で、自民・公明などの与党は、賛成多数で、国会で成立させようとしています。

 しかし、国民の世論は、どの世論調査を見ても、「反対」が大きく「賛成」を上回っています。
 例えば、NHKが9月11日~14日に実施した世論調査では、「安保法案賛成」19%に対して、「安保法案反対」が45%と倍以上になっています。

 それでも、国会議員の賛成多数で「安保関連法案」が可決されるとしたら、直接民主主義と間接民主主義の矛盾ですね。

 1945年に第2次世界大戦が終わって、今年で70年になります。
 この間、世界各地で戦争や紛争が起きました。
 世界地図に、70年の間に戦争・紛争に関わった国に印をつけていくと、アメリカ・ロシア・中国などをはじめ、世界のほとんどの国に印(マーク)が入ります。
 
 印の入らない(70年間戦争・紛争に参加していない)数少ない国の一つが、日本なのです。
これは、誇るべきことだと思います。
 この先、子供たちの時代、孫たちの時代にも、戦争マークがつかないようにすること。
 それが、戦争を知らない私たちが、次の世代に残していかなければならないことだと思います。


 おしまいに、暗殺された元アメリカ大統領 ジョン・F・ケネディの言葉を紹介します。

「人類は戦争に終止符を打たなければならない。そうでなければ、戦争が人類に終止符を打つことになる。」
 

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