2015年9月27日日曜日

8億人が感動した映画「君よ憤怒の河を渡れ」と名優 高倉健・中野良子

 「法律だけでは裁いてはいけない罪がある。法律だけでは裁けない悪がある。」

 これは、高倉健さんが主演の名作映画「君よ憤怒の河を渡れ」の中の名言です。
 今回は、中国で8億人が感動したというこの映画と、主演の高倉健さんのエピソ-ドを中心に紹介します。

 映画「君よ憤怒の河を渡れ」(きみよふんどのかわをわたれ)は、1976(昭和51)年に公開された日本映画で、監督は佐藤純彌さん、制作は大映の永田プロです。
 
 あらすじを紹介します。

 「代議士の不審死事件」を捜査していた東京地検の検事・杜丘冬人(高倉健)は、突然、強盗傷害容疑の冤罪をかけられます。
 杜丘検事は、冤罪を晴らすために逃走し、証拠を探しますが、逆に殺人の疑いまでかけられてしまいます。

 犯罪の痕跡を追って北海道の様似町(さまにちょう)へ飛んだ杜丘は、山中でクマに襲われていた遠波真由美(中野良子)を救い、二人は恋に落ちます。
 遠波真由美の父のセスナ機を借りて、杜丘は飛行機で関東へ戻り、捜査線をかいくぐってキーパーソンがいる東京の精神病院へ偽装入院します。
 
 思考回路を麻痺する新薬を投与されながらも杜丘検事は耐え、「代議士の不審死事件」と「冤罪」の黒幕をつきとめ、ついには自らの冤罪をはらします。

 最初に紹介したセリフは、最後に冤罪を晴らしたあとの杜丘のセリフですが、実は、その後に続く言葉もいいセリフがあります
(検事の仕事に戻れと言われて) 私は、追われてきてわかったことがある。もう人を追うことはしないことにした。」
   冤罪で追われる立場になってみて、人を追いかける職業のむなしさに気づいた杜丘検事は。検事を辞める決意をした瞬間でした。

 もう一つ、私がこの映画の中で好きなセリフは、初めてセスナを操縦して北海道から東京に向かう社丘に、真由美の父の遠波善紀(大滝秀治)が言った次の言葉です。
 「男には、死に向かって飛ぶことが必要な時もある。」
 特攻ということではなく、死ぬ気で正義を貫く杜丘の勇気が、感動的です。

 ネットでは、「真由美を襲うクマが、ぬいぐるみでしょぼい」との指摘もありますが、それぐらいは目をつぶってください。
 この映画は高倉健さんの代表作の一つで、けだし名作だと思います。

<写真 北海道様似町>



 実は、この映画の反響は、日本以上に中国がすごかったんです。
 1979(昭和54)年に、中華人民共和国で『追捕』というタイトルで公開され、中国の「文化大革命」後に初めて公開された外国映画ということもあり、大変な人気を呼びました。
 一説には、8億人が見たとも言われています。

 権力に負けない意志と行動力をもち、耐えて耐えて耐え抜いて、最後に勝った杜丘検事の行動が、独立戦争と文化大革命を経験し、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の国でもある中国の人たちの、深い共感を呼んだのだと思います。

 もちろん、主演の高倉健さんとヒロインの中野良子さんは、中国では今も人気が非常に高い俳優です。
 ここからは、この二人の名優と映画「君よ憤怒の河を渡れ」の話をします。

 まず、ヒロインの中野良子さん(1950年~ 愛知県出身)は、中国で公開された「追補」のポスターで最も大きく写真が使われるなど人気が高く、この映画の公開以降、70回以上も中国を訪問し、中国各地で100回以上、講演を行っています。

 さらに、1984年の中国での「日中首脳会議」では、ゲストキャスターにも起用され、その後、外務省からの依頼で、世界中で講演を行うようになります。

 1995(平成7)年には、中国に「秦皇島中野良子小学校」が建設されます。さらに、1999(平成11)年には、ニューヨーク市の公立学校の課外授業に「中野良子の地球の志」が採用されます。
 中野良子さんにとっては、「君よ憤怒の河を渡れ」の中国での大ヒットが、人生の大きなターニングポイントになったのは間違いないと思います。

<「君よ憤怒の河を渡れ」の中国版「追補」のポスター>



 一方、主演の高倉健(1931年~2014年、福岡県出身)さんも、日本と同じく中国でも、「神俳優」と呼ばれるほど、人気と尊敬を集めています。

 2006年には中国映画「単騎 千里を走る」で主演し、北京電影学院の客員教授にも就任しています。
 2014年11月に高倉健さんが亡くなられた時には、中国のマスコミでも大きく取り上げられ、惜しむ声がたくさん上がりました。

 高倉健さんについては、たくさんの逸話がありますが、その中から「君よ憤怒の河を渡れ」についてのエピソードを紹介します。

 この映画が作られた1976(昭和51)年は、高倉健さんが「任侠映画以外にも出たい」と東映を退社した年で、「君よ憤怒の河を渡れ」は、フリーになった第1作です。

 それだけに、高倉健さんの意気込みは凄く、北海道ロケの最中に健さんの実のお父さんが亡くなったときにも、帰郷しませんでした。

 この時、健さんの代わりに、高倉さんの実家を訪れ父の葬儀に参列してくれた東映の高岩淡さん(のち社長・会長)に対して、健さんは非常に恩義に感じました。
 後日、高岩さんのお母さんが亡くなったときには、通夜の日の夜中に高倉健さんがそっと来て、縁側の外の石段に線香をあげて帰って行ったそうです。
 高倉健さんは、映画のイメージどおり、「義理と人情を重んじる男の中の男で、人と人との心の繋がりを何よりも大切にする人だった」と、関係者が口を揃えておっしゃっています。

 高倉健さんの話は、また別の機会にも紹介してみたいと思っています。

 今回の最後は、高倉健さんが、徳間書店の創業社長で大映の社長も務めた徳間康快さんが、日中映画交流の映画祭に、高倉健さんと参加していた時の中国のホテルで話です。

 行事が終わったあとのホテルで、コーヒーを飲みながら、高倉健さんがモンゴル相撲について、こんな話をしました。
 「モンゴルの相撲は実力があるから、若い相撲取りを日本に連れてきて、相撲部屋に入れれば大いに期待できますよ。」


 ちょうど、今日(平成27年9月27日)の「大相撲秋場所千秋楽」の優勝決定戦では、モンゴル勢同士の優勝争いで、横綱・鶴竜が大関・照ノ富士を倒しました。

 今は、モンゴル出身力士全盛の大相撲ですが、横綱・朝青龍などが出るずっと前に、高倉健さんがモンゴル相撲の実力を見抜いていたのは、すごいですね。
  映画の話に戻ります。

  「君よ憤怒の河を渡れ」のラストシーンでは、検察庁を出て、行くあてもなく歩き出す杜丘(高倉健)に、真由美(中野良子)が聞きます。
  「一緒に行ってもいい?」
  高倉健は、「自分、不器用ですから」とは言わずに、黙って中野良子の肩を抱き、二人は東京の街の雑踏の中に、風のように消えて行きます。

  映画のタイトル「君よ憤怒の河を渡れ」というのは、復讐を完遂することではなく、その後の「街の風となって消えてゆく二人」のことを言っているのではないか。
 そう感じるのは、私だけでしょうか?

2015年9月23日水曜日

2015年は名月とスーパームーンの競演 ~月の不思議な話~

 「名月を とってくれろと 泣く子かな」

 これは、江戸時代の俳人小林一茶が、(美しい月がほしいと駄々をこねる子供)の様子を読んだ、ほのぼのとした名句です。
 今回は、「名月とスーパームーン」の話を中心にお話をします。

 2015年の「中秋の名月」は9月27日で、その翌日の9月28日が「満月でスーパームーン」です。
 「中秋の名月=満月ではないの?」と思われる方もいらっしゃると思いますが、実は時々、ずれることがあるんです。

<写真「昼間の月」>



 「中秋の名月」は、旧暦8月15日の月を言います。これは、文字通り「秋の真ん中の月」のことを指します。
 旧暦では「7月~9月」が秋ですので、そのちょうど真ん中、8月15日が「中秋の名月」です。
 
 もう一つ、「仲秋の名月」という表現がありますが、「にんべん」を付ける「仲秋」は旧暦の8月のことを指しますので、「仲秋の名月=8月の美しい月」という意味になって、必ずしも旧暦8月15日の月だけを指すものではなくなります。
 因(ちな)みに、旧暦7月は「孟秋」、旧暦9月は「季秋」と呼びます。

 一方、「満月」は、月が「望(ぼう)」、つまり地球から見てちょうど太陽の反対方向を通る瞬間を迎える日のことを意味します。
 9月の「望」は、正確には9月28日の午前11時50分頃ですので、この日が満月ということになります。

 さらに、月と地球の距離が、今年最も接近(356,876km)するのも、9月28日午前10時46分ですので、この日の月は、「月と地球の最接近時に見える満月=スーパームーン」ということになります。普段の月より、明るさで30%、大きさで14%増しだそうです。
 
 「スーパームーン(Super moon)」という言葉は、占星術の用語で天文学の用語ではありませんが、それだけに、「月の不思議なパワー」を最大限に受けるという話には、現実味があると思いませんか?

 「スーパームーン」のパワーの一つとして言われているのが、大地震との関係です。

 例えば、2004年12月26日に起きた「スマトラ島地震とインド洋大津波」(M9.1、死者22万人)の2週間後の2005年1月10日に「スーパームーン」がありました。

 また、2011年3月11日の「東日本大震災と大津波」(M9.0、死者・行方不明18000人以上)の8日後の2011年3月19日にも、「スーパームーン」がありました。

 そう言えば、今回の「スーパームーン」の11日前にあたる9月17日にも、チリでM8.3の巨大地震がありましたね。これは、偶然でしょうか?

<写真 月とススキ>






 ここからは、「月にまつわる不思議な話」です。

 日本では、竹から生まれた美しい娘「かぐや姫」が、大きくなって月に帰る話(竹取物語)が有名です。
 この中で「不死の薬」を、日本一高い山の頂上で燃やす話が出てきます。
 この言い伝えから、日本一高い山を「不死山=富士山」と呼ぶようになったとも言われています。

 もう一つ、月で有名なのは「月にウサギがいて餅つきをしている」という「月ウサギ」の話です。
 あらすじを紹介します。

 昔、あるところにウサギとサルとキツネがいました。3匹は疲れ果てた老人に会いました。
 3匹は、それぞれ食べ物をとってきて老人に与える約束をしました。
 サルは木に登って果物を取り、キツネはお墓でお供え物を見つけ、老人に与えました。

 ところが、ウサギは何の食べ物も見つけられなかったので、覚悟を決め、サルとキツネに火を焚いてもらい、「私を食べてください。」と老人に言うと、火の中に飛び込んで死んでしいました。
 老人は実は「帝釈天(たいしゃくてん)」で、ウサギを哀れに思い、その姿を月に移して残しました。

 悲しい話ですね。
 実は、「月と不死とウサギ」をテーマにした話が、南アフリカのホッテントット族に、神話として残っています。
 
 月は、ウサギを使者として人間界に派遣し、「月が死んでも(新月になっても)甦るように、人間たちも死んでも甦るがよい。」と言うように命令しました。

 ところが、ウサギは間違えて、「私(ウサギ)が死んでも甦らぬように、人間たちも甦ってはならぬ。」と伝えてしまいました。
 怒った月は、ウサギの唇を裂きました。ウサギは、今でもピョンピョンと飛んで、月から逃げています。

 遠く離れた日本と南アフリカで、「月と不死とウサギ」の伝説が残っているのは、不思議ですね。
(そう言えば、先日、ラグビーワールドカップで、日本は南アフリカから大金星を挙げましたが、これも月のパワーでしょうか???)

<写真 月とウサギ>




 おしまいは、最初に紹介した「名月を とってくれろと 泣く子かな」を詠んだ、俳人・小林一茶の話です。
 この句を、ほのぼのとした名句と紹介しましたが、実は小林一茶は、こんな句も詠んでいます。

 「名月や膳(ぜん)に 這(は)ひよる 子があらば」

(美しい月を眺めているが、お膳に這ってくる(亡くなった)子供がいたら、もっと楽しいだろうな。)
 というような意味ですが、実はこの中には、一茶の人生の悲哀が含まれています。

 小林一茶(こばやし・いっさ 1763年~1828年)は、江戸時代後期に現在の長野県信濃町に生まれた俳人ですが、3度結婚しています。

 1度めは、一茶52歳の時で、28歳の「きく」と結婚し3男1女を設けます。ところが、4人とも幼い頃に死んでしまいます。妻きくも38歳で病死してしまいます。

 2度目の結婚は、62歳で「雪」としますが、半年で離婚してしまいます。

 3度目の結婚は64歳で、「やを」という女性と結婚し妊娠します。
 しかし、子供が生まれる前に、今度は一茶が他界してしまいます。(お腹にいた一女・やたは、一茶の死後に産まれ、父親の一茶の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えました。)

 小林一茶は、全部で5人の子供を設けますが、結局、1人の子供の成長も見守れなかったとは、悲しい話ですね。

「名月を とってくれろと 泣く子かな」
の句も、小林一茶の人生を知ると、悲しい歌にも聞こえてきますね。

ここで、一句。
「名月に 子どもくれろと 泣く一茶」


 今回の「名月」と「スーパームーン」の話は、悲しい話が多いですね。
 秋の夜長の月は、しみじみと眺めるものということでしょうかね。

 最後は、少しは希望がもてる話を紹介します。

 「スーパームーン」に、お金だけ(カード等を取った)が入った財布をかざして振ると、金運が上昇すると言われています。

 信じるか信じないかは自由ですが、少なくても私はやってみるつもりです。
 

2015年9月20日日曜日

敬老の日の由来・伝説と「療養所(サナトリウム)」

 今年(2015年)の敬老の日は、「シルバーウィ-ク」真っただ中の9月21日です。
 「父の日」や「母の日」は世界的にありますと以前紹介しましたが、「敬老の日」が単独であるのは、日本だけです。
 今回のテーマは、敬老の日の由来と伝説です。

 まず、敬老の日の「2つの伝説」から紹介します。

 1つ目は、「聖徳太子が四天王寺に悲田院を作った」という伝説です。

 聖徳太子(524年?~622年)は、593(推古天皇元)年に、四天王寺(大阪市天王寺区)を建立したと伝えられています。
 この時、四天王寺に「四箇院(しかいん)の制」を作り、その1つとして「非田院(ひでんいん)」という身寄りのない老人や孤児を収容する施設を作りました。

 これが、日本初の「老人ホーム」や「孤児院」とも言われています。
 この「悲田院」が建立されたのが、9月15日だったそうです。

<四天王寺(大阪市天王寺区)>

 

 

 2つ目が、「養老の滝伝説」です。
 岐阜県養老町にある「養老の滝」には、こんな伝説が残っています。

 昔、奈良時代の美濃の国(岐阜県)に親孝行な息子がいました。
 この息子には酒好きの年老いた父親がいましたが、貧乏であったために満足に酒を買ってあげられませんでした。
 息子は、「父親に、たくさん酒を飲ませてあげてください。」と、毎日、神様に祈りました。

 ある日、息子が山の中を歩いていると滝を見つけました。
 その滝の水を飲んでみると、なんと「お酒」でした。
 喜んだ息子は、滝の酒を酌んで帰り、父親にたくさんのお酒を飲ますことができました。

 この孝行話をお聞きになった、「元正(げんしょう)天皇」は、霊亀3(717)年9月の中旬に「滝」に行幸(天皇がお出かけになること)されました。

 天皇は、「この滝の水が酒になったのは、息子の孝行を神様がお褒めになられたからだろう。」と感心し、孝行息子に褒美を授けました。
 さらに、「天下に大赦して、霊亀3年を改め養老元年と成すべし。」との詔(みことのり)を出し、元号を、「霊亀」から「養老」に改元しました。

 それから、この滝は「養老の滝」と呼ばれるようになり、天皇が行幸された9月中旬に「敬老の日」を定めたという伝説です。


<養老の滝(岐阜県養老町)>





 次に、現在残っている確かな「敬老の日」の由来を紹介します。

 戦後間もない、1947(昭和22)年に、兵庫県野間谷村(現在の多可町)の門脇政夫村長と山本明助役が、「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう。」と提唱した、「としよりの日」が始まりだと言われています。

 農閑期で気候も良い9月15日を「としよりの日」と定め、村中のお年寄りを集めて、村づくりの意見を聞いたのですが、この時の対象は55歳以上だったそうです。

 その後、兵庫県内から全国に広がり、「としより」という表現は良くないということで1964(昭和39年)に、「老人の日」と改称されました。
 翌年、1965(昭和40)年に、国民の祝日「敬老の日」が制定されました。
 
 2002(平成14)年までは、9月15日が「敬老の日」でしたが、2003年からは9月の第3月曜日になりました。


 因(ちな)みに、長寿を祝う、主な「賀」の祝いといわれを紹介します。(年齢は、数えです。)
 
<還暦 (61歳)>
 干支(十干十二支)が一巡し、生まれた年の干支に戻ることを言います。還暦祝いに用いられる赤い色は、生命を象徴する太陽の色で、また魔除け、厄除けの色であるとも言われています。

<古希 (70歳)>                                                          中国の詩人・杜甫の「人生七十古来稀なり」という言葉に由来します。                        平均寿命も伸びた現在では、「古希」を最初の長寿祝いにする場合も多いようです。

<喜寿 (77歳)>                                                            「喜」という字の草書体が、七十七に通ずるところから「喜の字の祝い」とも言われ、一般的には扇子に「喜」の字を書いて送る習慣があります。

<傘寿( 80歳)>                                                        「傘」の字を略したものが、八十と読めることに由来しています。金茶の衣服や小物などを贈ります。

<米寿 (88歳)>                                                        「米」の字をばらばらに分解すると八十八になることからつけられた呼び名です。別名「米の祝い」とも呼ばれます。

<卒寿 (90歳)>                                                              「卒」の字は略して書くと「卆」となり、さらにそれを二つに分けると「九十」となることから。別名「鳩寿」とも呼ばれるため、それにちなんで鳩の飾りのついた杖を贈ります。

<白寿(99歳)>                                                        百の字から一を取ると「白」になることから、「百引く一は九十九」という意味でつけられました。それにちなんで、最も清らかな色とされる、白い衣類などを贈ります。

<百賀 (100)歳>                                                       100歳は「百賀の祝い」といい、101歳が”百一賀の祝い”といいます。100歳以上の長寿祝いは毎年行います。ちなみに110歳以上の祝いは「皇寿の祝い」または「珍寿の祝い」といいます。


 お年寄りが多くなり、100歳以上の高齢者は1963年には153人でしたが、2015年9月15日現在では6万1568人と、50年で400倍以上になり、初めて6万人を超えました。そのうち、女性が87%を占めています。

 一方で、貧乏な老人を「下流老人」と呼ぶ言葉も流行り、淋しい老後も見えているような気がします。
 
<敬老の日発祥の地? 兵庫県多可町>

 


 最後は、若い頃、結核で「サナトリウム(結核の療養所)」に入院していた歌手のさだまさしさんが、自身の経験をもとに、一緒に入院していた「孤独なおばあさん」のことを書いた歌詞の一節を紹介します。


♪ 「療養所(サナトリウム)」 (作詞・作曲・歌 さだまさし)

病室を出ていくというのに 
こんなに心が重いとは思わなかった
きっとそれは
雑居病棟のベージュの壁の隅にいた
あのおばあさんが 気がかりなせい

(中略)

ふた月もの長い間に
彼女を訪れる人が誰もなかった
それは事実
けれど人を憐れみや同情で
語ればそれは嘘になる

まぎれもなく人生そのものが病室で
僕より先にきっと彼女は出てゆく
幸せ不幸せ それは別にしても
真実は冷ややかに過ぎてゆく

さまざまな人生を抱いた療養所は
やわらかな陽溜りとかなしい静けさの中

たった一つ僕にもできる ほんのささやかな真実がある
それは
わずか一人だが 彼女への見舞客に
来週からなれること ♪



 この曲を聞くと、私の亡くなった祖母が、結核病棟へ入院していた時のことを思い出します。
 私は、しっかり孫として、見舞客になれただろうかと、反省しています。

 超高齢化社会が迫る中、せめて、「敬老の日」ぐらいは、元気な親や祖父・祖母をお持ちの方は、「ありがとう。元気?」のいたわりの言葉を、直接会うか、それが無理なら電話・メールで、伝えませんか。

 亡くなられた先祖にも、できれば墓参り、それが無理なら心の中で、感謝しましょう。

 私も、「敬老の日」ぐらいは、両親やおじいさん、おばあさんに、ささやかな感謝の言葉を贈りたいと思っています。
 



2015年9月19日土曜日

「安保関連法案」名言・迷言集 そして沈黙のメッセージ 

 2015(平成27)年9月19日午前2時18分、「海外での集団的自衛権の行使」を可能にした「安保関連法制」が、自民党・公明党などの賛成多数で参議院で可決・成立しました。

 この法律は、戦後70年続けてきた「専守防衛」「戦争放棄」などの日本の安全保障政策を、大きく変更するものだと思います。

 今回は、「戦争と平和」や「安保法案」に関する名言・迷言を、紹介します。
 どれが名言で、どれが迷言なのかは、みなさんの判断にお任せします。

<安保法案の採決(国会本会議場)>




 まず、「安保関連法案反対デモ」に参加していた高2の男子生徒の言葉です。
「 これからも、廃案に追い込むチャンスはある。私たちは微力だが、無力ではない。この活動は自分たちの未来のためだ。」

 次に、ミュージシャンの長淵剛さんの言葉です。
「 感覚として、戦争が近づいている気がする。どうやって阻止すべきか。子供が死ぬんだ、自衛隊員が死ぬんだぞと。」

 タレントの松本人志さんの言葉。
「 倍さんがやろうとしていることに対して『反対だ!』っていう意見って、意見じゃないじゃないですか。
 対案が出てこないんで。じゃあどうすると。このままでいいわけないんですよ。このままでいいと思っているとしたら、完全に平和ボケですよね。」


 続いて、落語家の笑福亭鶴瓶さんの言葉。
「 政府が変な方向に行っている。憲法9条はいじったらあかん。家族に乾杯をしたいがために言うてるんですよ。」

 堀江貴文(ホリエモン)さんの言葉。 
「 デモ参加者は、間違った理論に盲従する頭悪そうな人。安保反対デモに行ってる事をカミングアウトしたら、私は採用しませんよ。仕事出来ないと思うから 。」

 安保法案に反対するママの会のキャッチフレーズ
「だれの子どもも、ころさせない。 We say NO WAR!」

 安保法案に反対するママの会の実行委員の一人・鷹巣直美さん(主婦)の言葉。
「 子どもは、武器やお金を持って生まれてくる訳ではないのです。それは、この世界の人たちが必ず助けてくれると信じているから。戦争なんてばかなことはやめてください。」


 安倍晋三内閣総理大臣の言葉 (安保関連法案 成立直後)
「 平和安全法制は、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な法制であり、戦争を未然に防ぐためのものだ。
  子供たちや未来の子供たちに、平和な日本を引き渡すために、必要な法的基盤が整備されたと思う。今後も積極的な平和外交を推進し、万が一の備えに、万全を期していきたい。」

 岡田克也民主党代表の言葉 (安保関連法案 成立直後)
「 極めて残念。憲法の平和主義・立憲主義・民主主義に、大きな傷あとを残した。ただ、これからが本当の勝負だと思っている」

 アメリカ国務省のコメント
「 われわれは、日本が日米同盟を強化し、地域や世界の安全保障に、より積極的な役割を果たすため行っている取り組み(安保関連法)を歓迎する。
 日本は70年間、平和や民主主義などにたゆまず取り組んできた。その足どりはすべての国にとって模範となる。」

 中国外務省のコメント
「 (安保関連法可決は)戦後日本の軍事分野におけるかつてない動きだ。
 日本の近年の軍事力の強化や軍事安全政策の大幅な調整は、時代の潮流と相いれないものであり、日本が専守防衛政策や戦後の平和の歩みを捨てるのではないかという疑念を引き起こしている。」


日本弁護士連合会のメッセージ(同会ホームページより)
「 この法案(安保関連法案)は、集団的自衛権の行使を容認するなど憲法第9条等の恒久平和主義に違反しています。
 また、この法案は、本来、国民投票によるなど憲法改正手続(憲法第96条)を経なければできないことを、政府解釈や立法によって行おうとするものであり、国民主権に違反します。
 このように、憲法違反の法律を制定することは、日本国憲法が依って立つ「立憲主義」を破壊するもので、日弁連としては、容認できるものではなく、これらの法案の成立に強く反対しています。」

 最後は、93歳の作家の瀬戸内寂聴さんの言葉です。
「 あらゆる戦争は悪だと思っています。戦争にいい戦争なんてありません。
  私たち老人は、命に代えても、そのことを語り継がなければなりません。」

<写真 平和ののぼり>



 1945年に第2次世界大戦が終わって、今年で70年になります。
 この間、世界各地で戦争や紛争が起きました。
 朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、シリア紛争など、世界から「戦争・紛争」が消えることはありませんでした。
 そんな中でも、日本は平和憲法の下、戦争を1度もせずに「奇跡の復興」を果たしてきました。

 「安保関連法案」の成立で、これから日本は、どんな道を歩くことになるのでしょう。
  心配な気持ちがないと言えば、ウソになります。
  山本太郎参議院議員は、参議院での安倍首相の問責決議案採決で、「1人牛歩」と「喪服・数珠で焼香」のパフォーマンスをしたそうです。

  日本の平和や民主主義の終焉にならないように、みんなで「戦争をしない国・日本」、「平和な日本」を維持していかなければ、いけないと思っています。
 
 最後は、どんな名言よりも、どんなデモよりも、私の心に一番響いた「沈黙のメッセージ」を紹介します。

 通勤途中の橋のたもとで、どう見ても70代以上と思われる数人の老人たちが、毎朝、数本の「幟(のぼり)」を掲げて、街ゆく人たちに、何も言わずに深々と会釈する姿がありました。
 幟には、「平和」「憲法9条守れ」「若者を戦争に行かせない」などと書いてあります。

 「サイレント・スタンディング」と呼ばれるものかも知れませんが、選挙や宣伝以外で、毎朝、街頭に立ち会釈する人を見たのは初めてでした。

 派手なパフォーマンスもスポンサーも一切ありませんが、毎朝のおじいさん・おばあさんたちの紳士的で自主的な「沈黙のメッセージ」は、心に響くものがありました。

 若者から老人まで、男子も女子も、平和を守るためのドイツ憲法が言う「憲法を守るための戦う民主主義」の活動を行うのは、「これから」なのかも知れません


<一句>

 憲法に 秋風が吹く 安保法
      
 

 
    
 

歴史シミュレーション「安保法案は太平洋戦争を止められた?」 

「 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない。」
(『ユネスコ憲章前文』)

 2015(平成27)年 ほど、日本中の一人一人が「戦争と平和」について、考え・議論している年は、平成になって初めてだと思います。

 国会はもちろん、若者も、会社員も、OLも、ママたちも、そして老人まで、「戦争と平和」について考える人が日本中にあふれているのは、すごくいいことだと思います。

 ただし、安保関連法案の成立の有無、その後の運用の仕方によっては、日本の歴史の大きなターニングポイントになる可能性が強いのが、2015年だと思います。


「 第9条第1項 
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争、 武力  による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

 これは、勿論、「日本国憲法9条第1項」です。

 この憲法9条に反している(違憲)かどうかが大きな議論になっているのが、「安保関連法案」です。
 政府・与党は、「安保関連法案」を、戦争の危険性を低下させる「平和安全法制」だとして、今国会で可決成立させる構えです。

 一方、民主党などの野党は、「あらゆる手段」で反対すると表明していますし、安保法案に反対する学生団体「SEALDs(シールズ)」などの市民団体は、安保関連法案を「戦争法案』「憲法違反」だと呼び、反対運動(デモなど)を起こしています。

<写真 安保関連法制 反対デモ>



 正直なところ、「安保関連法案」は。「平和安全法制」なのでしょうか?
 それとも、「戦争法案」なのでしょうか?

 この疑問について考えるために、太平洋戦争直前の1941(昭和16)年の日本を舞台に、「歴史シミュレーション」をしてみたいと思います。
 テーマは、「安保関連法案で、太平洋戦争は回避できたか?」です。

 まず、中学の教科書で、「太平洋戦争の開戦のいきさつ」を見てみましょう。

「 1939(昭和14)年に、周辺諸国を併合し領土獲得を進めてきたナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まりました。

 当初ドイツ軍は勝利を収め、1940年にはフランスを征服しました。
 この快進撃を目の当たりにした日本は、急速にドイツに接近し、1940年9月に「日独伊三国同盟」を締結しました。
 これはヨーロッパのドイツ・イタリアと手を組み、イギリスなどを牽制する目的でしたが、逆にアメリカ・イギリスとの対立関係を深めることになりました。

 日本は、1941年にソ連(現ロシアなど)と「日ソ中立条約」を締結し、日独伊三国同盟にソ連を加えようとしましたが、ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まったことで、その構想は破綻しました。

 日中戦争の長期戦打開のために、日本は、1941年に仏領インドシナ(現:ベトナム)に進駐しますが、米英から石油禁輸などの強硬な経済制裁を受け、日米間の関係悪化は決定的になりました。
 このときに形成された対日経済包囲網を、「ABCD包囲陣」もしくは「ABCD包囲網」といいます。

 日本はアメリカと交渉を行い、石油禁輸の解除を求めましたが、アメリカからは、「ハル・ノート」と呼ばれる強行案(中国大陸からの撤退など)が提示されます。
 日本は、その内容を見て対米開戦を決意します。

 そして、1941(昭和16)年12月に、日本とアメリカ・イギリスとの間に「太平洋戦争(大東亜戦争とも言う。)」が勃発します。

 太平洋戦争の開戦の理由としては、「ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網」や「ハル・ノート」で、石油禁輸や中国・インドシナからの撤退要求をされた日本が追い詰められたというのが一般的です。


<中学社会「歴史」の教科書>



 ここで問題です。
 もしも、この時代に日本に「安保関連法案」があったら、戦争は回避できたのでしょうか?

 「安全保障関連法案」に盛り込まれた集団的自衛権を使う際の前提になる3条件に、当時の状況をあてはめてみましょう。

 まず1番目の条件です。
(1) 密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。(いわゆる「存続危機事態」)

 1941年12月時点で、「日本と密接な関係のある他国」は、当然、「三国同盟」を結んでいるドイツとイタリアになります。
 1939年からドイツ・イタリアとイギリスなどの間では、武力衝突(第2次世界大戦のヨーロッパ戦線)が続いていますので、第1条件の前半部分はクリアされます。

 次に、「存立危機事態」の要件を満たすかどうかについては、内閣の判断となります。
 「ABCD包囲網」や「ハルノート」は、資源が少なく領土拡大路線をとっていた当時の日本にとって、「存続危機事態」だと、内閣が認定すれば第1条件はクリアできます。

 続いて2番目の条件は、
「(2)我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない。」です。

 これも内閣の判断ですので、「インドシナや満州からの撤退」という手段が容認できないと、内閣が判断すれば、第2条件も満たすことになります。

 最後の3番目の条件は、
「(3)必要最小限度の実力行使にとどまる。」です。

 これも、客観的な尺度はないので、内閣が「必要最小限度」と判断すればいいことになります。

 以上、結論を言えば、「1941年12月時点で安保関連法案があっても、太平洋戦争は起こっていた。」ということになります。


 それでは、日本国憲法9条の「専守防衛」のもとでの「太平洋戦争回避」は、どうでしょうか。

 もし、1941年の日本が、憲法9条の「専守防衛」に徹していたら、アメリカからの宣戦布告は避けられたのでしょうか?

 実は、時のアメリカ大統領ルーズペルトは、日本と開戦し、日本の同盟国のドイツやイタリアにも宣戦布告して、窮地に立っていた盟友・イギリスを助けたかったのです。

 ところが、アメリカ国内の世論は参戦に否定的でした。
 1941(昭和 1 6)年 ) 1 月 30 日に実施された 「ギャラップ社の世論調査」によれば、 米国民の 88 パーセントは米国の欧州戦争介入に 反対でした

 アメリカは、国内世論を戦争賛成にもっていくために、日本から戦闘行為が始まることを、待っていたという証言が残っています。
 日本の参戦行動を挑発するために、「ABCD包囲網」や「ハルノート」を作り、ハワイ奇襲も事前に情報を持っていたと言われています。(真珠湾奇襲の時、アメリカ軍の空母が1隻もいなかったのは、偶然ではなかったのです。)

 ですから、もし、日本が先制攻撃をせず、日本国憲法9条の「専守防衛」に徹していたら、大儀銘文がないアメリカのルーズベルト大統領は、参戦できなかったか、参戦できても国内の支持を得ることはできなかったのではないかと思われます。

 もちろん、日本もインドシナ(ベトナム)から撤退や生活物質の困窮など、日清戦争のあとの三国干渉時のような「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を強いられたでしょうが、少なくても数百万の人命が助かったはずです。

 「歴史シミュレーション」の結論は、安保関連法案は「太平洋戦争参戦」は止められないが、日本国憲法9条の「専守防衛」を守れば戦争は避けられた可能性が高いということになります。


<写真 安保関連法案 反対集会>




 2015年9月の日本に戻ります。
 
 「安保関連法案」は、国会を取り囲む数万人の反対デモの中で、自民・公明などの与党は、賛成多数で、国会で成立させようとしています。

 しかし、国民の世論は、どの世論調査を見ても、「反対」が大きく「賛成」を上回っています。
 例えば、NHKが9月11日~14日に実施した世論調査では、「安保法案賛成」19%に対して、「安保法案反対」が45%と倍以上になっています。

 それでも、国会議員の賛成多数で「安保関連法案」が可決されるとしたら、直接民主主義と間接民主主義の矛盾ですね。

 1945年に第2次世界大戦が終わって、今年で70年になります。
 この間、世界各地で戦争や紛争が起きました。
 世界地図に、70年の間に戦争・紛争に関わった国に印をつけていくと、アメリカ・ロシア・中国などをはじめ、世界のほとんどの国に印(マーク)が入ります。
 
 印の入らない(70年間戦争・紛争に参加していない)数少ない国の一つが、日本なのです。
これは、誇るべきことだと思います。
 この先、子供たちの時代、孫たちの時代にも、戦争マークがつかないようにすること。
 それが、戦争を知らない私たちが、次の世代に残していかなければならないことだと思います。


 おしまいに、暗殺された元アメリカ大統領 ジョン・F・ケネディの言葉を紹介します。

「人類は戦争に終止符を打たなければならない。そうでなければ、戦争が人類に終止符を打つことになる。」
 

2015年9月18日金曜日

太平洋沿岸に津波注意報 ~18日5時から8時頃、1mの津波到達予測~ 

 気象庁は、2015年9月18日、北海道~沖縄県までの太平洋沿岸に「津波注意報」を発表しました。
 「海岸や河川に近づかないでください。
  海の中にいる人、海岸や河川にいる人は、ただちに海から上がって海岸や河川から離れてください。

 津波到達予測時刻は、午前5時~午前8時で、予想される津波の高さは1mです。


<気象庁の津波注意報の発表状況、9月18日午前4時現在>



 各地の第一波の津波到達予想時刻(目安)は、次のとおりです。(いずれも、9月18日午前です、)

・北海道太平洋沿岸      5時~6時
・東北太平洋沿岸        5時30分~6時
・関東沿岸・小笠原諸島など 5時30分~6時
・東海沿岸            6時~6時30分
・近畿太平洋沿岸        6時30分~7時
・四国太平洋沿岸        6時30分~7時
・九州太平洋沿岸        7時~8時
・沖縄沿岸            7時~7時30分


 今回の津波は、9月17日7時54分ごろ、南米チリで起きたM(マグニチュード)8.3の巨大地震の影響によるもので「遠地地震(えんちじしん)」と呼ばれています。
 チリ沿岸で5m近く、ハワイで1mの津波が観測されていますので、十分な注意が必要です。

 「太平洋の反対側の地震なので遠いから安心」と思われるかも知れませんが、1960(昭和35)年5月24日には、今回と同じチリの巨大地震の影響で、日本沿岸に数メートルの津波が押し寄せ、死者・行方不明124人という大きな被害を出したこともあります。(「チリ津波」)

 「津波注意報」が解除されるまでは、十分、警戒してください。

2015年9月14日月曜日

名曲紹介♪「故郷の空」と「麦畑」 ~ライ麦畑でつかまえて~

♪「故郷の空」 (作詞 大和田 建樹)

1夕空晴れて 秋風吹き
 月影落ちて 鈴虫鳴く
 思えば通し 故郷の空
 ああ 我が父母 いかにおはす

2.澄行く水に 秋萩たれ
 玉なす露は ススキに満つ
 思へば似たり 故郷の野邊
 ああ わが弟妹(はらから) たれと遊ぶ


<写真>

 


 台風の影響の大雨がやっと止んでみると、季節はすっかり秋になって、「故郷の空」が似合う季節になりましたね。

 「ザ・日本の秋」を歌った美しい曲ですが、この曲の作詞者は、「♪汽笛一声 新橋を」の歌詞で有名な「鉄道唱歌」を作詞した大和田建樹(おおわだ・たけき 1857年~1910年 愛媛県出身)さんです。

 東京師範学校(現・筑波大学)の教授をしていた大和田さんが、故郷を遠く離れて暮らす秋の夕暮れに、ふるさとの両親や兄弟を思って作った歌です。

 この歌には、軍歌的要素はまったくありませんが、日露戦争や太平洋戦争を題材にした映画(例えば「二百三高地」)に、遠く離れた戦地で、故郷を思う歌として、この歌が度々、登場します。
 明治の歌ですが、現在でも「古さ」を感じさせない、ふるさとを偲ぶ歌として、秋になると思い出される名曲ですね。


 ところで、この歌のメロディーの方は、実はイギリス・スコットランドの民謡です。
 原曲は、ロバート・バーンズ(Robert Burns、1759年~1796年 スコットランドの詩人)の詩に、1790年代に曲に乗せた「Comin' Thro' the Rye」 として、イギリスでは知られています。

 現代の英語に直すと、「Comming Through the Rye」となり、「ライ麦畑で出逢うとき」などと訳されます。

 この「故郷の空」には、有名な替え歌があります。
 「麦畑」または「誰かさんと誰かさん」という歌で、なかにし礼さんの作詞で、当時のテレビの人気者のザ・ドリフターズが歌って、1970(昭和45)年に、子供から大人まで、日本中で大ヒットしました。

♪「誰かさんと誰かさん ~麦畑~」

誰かさんと 誰かさんが 麦畑
チュッ チュッ チュッ チュッ している
いいじゃないか
僕には 恋人 ないけれど
いつかは 誰かさんと 麦畑


 当時は、「下品な歌だ」、「名曲を愚弄した替え歌だ」というような、批判も受けたそうです。

 ところが、元歌のスコットランド民謡「Comin' Thro' the Rye」の内容を要約すると、「誰かと誰かがライ麦畑で出逢うとき、2人はきっとキスをするだろう。何も嘆くことはない。誰でも恋はするものなんだから……」という内容になります。

 そうなんです。元歌に忠実なのは、「故郷の空」ではなく、「誰かさんと誰かさん(麦畑)」の方だったのです。
 今では「誰かさんと誰かさん」の作詞欄が、スコットランド民謡になっているものもあります。

 あの美しいメロディーの「故郷の空」の元歌が、「誰かさんと誰かさん(麦畑)」の内容だったとは、おもしろいですね。


<麦畑>



 最後は、「Comin' Thro' the Rye」をもじって、原題が付けられたと言われているベストセラー小説「ライ麦畑でつかまえて」(原題「The Catcher in the Rye 」)の話です。

 「ライ麦畑でつかまえて」は、アメリカの作家J.D.サリンジャーさん(1919年~2010年)が1951(昭和26)年に発表した小説で、作品の中には「Comin' Thro' the Rye」が歌われる場面もあります。

 あらすじを紹介すると、第2次大戦後間もないアメリカを舞台に、主人公の「ホールデン・コールフィールド」が、3校目に当たる「ボーディングスクール」を成績不振で退学させられます。
 彼が寮を飛び出し、ニューヨークを放浪して実家に帰るまでの3日間の話です。

 私は、落ちこぼれ意識や孤立感に苛(さい)なまれる主人公が、妹に問い詰めらた時に語った「将来の夢」を語るシーン、次のような言葉が好きです。
 「自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげる。そんな人間になりたい。」

 落ちこぼれでも退学者でも、将来の夢はやさしくステキですね。
 サリンジャー自身も退学経験をもつだけに、女が「母のふるさとスッコトランドの古い民謡」に託して書いた言葉は重みをもち、多くの若者の感動を呼びました。

 「ライ麦畑でつかまえて」は、全世界で6000万部売れ、60年以上経った今でも、年間25万部以上、売れています。



 <一句>

 台風が 過ぎ去り空は 故郷色

 

2015年9月12日土曜日

関東・東北豪雨の教訓 「特別警報で命を守る行動を」「洪水特別警報は出ない?」

 平成27年9月10日から11日にかけての「関東・東北豪雨」は、12日19時現在で、死者4人(宮城県2人、栃木県2人)、行方不明15人(茨城県)という大きな被害が出てしまいました。
 今後のために、今回の水害の教訓を考えてみたいと思います。

<写真:鬼怒川決壊>



 まず、関東・東北地方で初めて出された「特別警報」について、考えてみたいと思います。

 今回、栃木県、茨城県、宮城県の3県に出されたのは、「大雨特別警報」です。
 気象庁の基準は「数十年に1度程度の大雨」ということですが、概ね50年に1度が基準だそうです。

 特別警報が出た時間は、「栃木県」が10日午前0時20分、「茨城県」が10日午前7時45分、そして「宮城県」が11日午前3時25分でした。

 茨城県常総市で、鬼怒川の堤防が決壊したのは10日の午後0時50分ですから、特別警報が茨城県に出て5時間後たっています。
 遅いとは言えず「適切」だったのではないかと思います。

 ただし、気象庁の「特別警報」を受けて出すはずの、常総市の「避難指示」は鬼怒川の上流には出ていましたが、決壊した地区には出ていなかったそうです。

 この辺が1つの教訓になりそうですが、でも区市町村の首長や担当者を含め、国民の多くが「特別警報」の意味をあまり認識できてなかったのではないでしょうか。(私もそうでした。)

 また、鬼怒川の決壊した部分には「水位計」がなく、河川の様子の把握を、常総市が把握するのは難しかったと思われます。(上流の地区には、「避難指示」が出ていました。)

 もっと言えば、仮に「避難指示」や「避難勧告」が出ても強制力はないので、全員が一律に避難所へ向かうのではなく、夜中や水位の高い水の中を避難するより、建物の中の上の階へ避難する方が安全な場合もあります。(今回も、建物の上に避難した人が助かった例が多くあります。)

 だとすれば、「避難指示」や「避難勧告」の出るか出ないかは、あくまで参考とする程度で、個人の判断が重要になってきます。
 そのためにも、「特別警報が出たら、ただちに命を守る行動をとってください。」という気象庁のメッセージをもっと普及させていくことが重要だと思います。

<特別警報ポスター>



 もう一つ気になるのが、「洪水特別警報」が出なかったことです。
 今回の最大の被害が、河川のはん濫や決壊であったことを考えると、「大雨」に加え「洪水」の特別警報も出してほしかったと思いませんか?

 なぜ、「大雨特別警報」しか出なかったかというと、実は「洪水特別警報」というのは気象庁の規定にないのです。
 通常の警報には「大雨警報」も「洪水警報」もあるのに、なぜ、「洪水特別警報」はないのでしょうか。

 「特別警報」の種類について、気象庁のホームページ等で紹介します。

 気象等に関する特別警報は、「大雨」、「暴風」、「高潮」、「波浪」、「暴風雪」、「大雪」の6種類で、いずれの基準も「数十年に一度(概ね50年に一度)」となっています。
 例えば、東京都千代田区の50年に1度の大雨の基準は、3時間で170mm、48時間(2日)で407mmです。

 気象庁が、他に「特別警報」と位置付けているものとして、(1)津波の「大津波警報」、(2)居住地区に出された火山の「噴火警報」(レベル4および5)、(3)地震の「緊急地震速報で最大震度6弱以上を予想して発表するもの」、の3つがあります。

 やっぱり、「洪水の特別警報」はありませんね。
 なぜでしょう?

 実は、前回紹介したように、河川の水位やはん濫については、「指定河川洪水予報」という情報を、気象庁と、国土交通省または都道府県が共同で発表していて、特定河川について「○○川はん濫発生情報」や「○○川はん濫危険情報」という情報を出しています。
 今回の鬼怒川などにも、出されました。

 ところが「河川洪水予報」は、特定の河川に限定され、しかもその判断基準となる「水位観測所」の数も限られていて、今回の鬼怒川の決壊地点のように「水位観測」のブラインド地点も多くありますし、そもそも「水位観測所」がない河川も多くあります。
 また、気象庁の「特別警報」ほど、マスコミでも報道されません。

 今回の豪雨の原因となった「アウターバンド(線状降水帯)」による大雨洪水被害は、平成23(2011)年台風12号で、紀伊半島で死者・行方不明者98人を出したことでもわかるように、次第に増えています。

 このような状況を踏まえ、特定の河川だけではなく、地域全体の「洪水」の危険性を知らせる「洪水特別警報」を、ぜひ追加していただきたいものです。

<写真 ヘリコプターによる救出(茨城県常総市)>




 最後は、この大水害の中であった「いい話」を紹介します。

 今回、ニュースでも多く紹介されたように、「鬼怒川洪水」では、自衛隊、海上保安庁、消防、警察などの各機関から2日間で、のべ38機が出動して、1500人の孤立した人たちを救助しました。
 すごい数字だと思いませんか。
 
 実は違う機関のヘリが同じ地域で一緒に飛ぶのは調整が難しく、2011年3月の東日本大震災では、同一の場所を違う機関の複数のヘリが捜査するなど、空からの救助や捜索が、思うようにはかどりませんでした。

 その反省から「JAXA(宇宙航空研究開発機構)」が、災害時に様々な機関のヘリコプターの空の交通整理を一元的に行う「D-NET」という仕組みを構築しました。

 今回の災害では、「命を救う空のネットワーク」とも言える、この仕組みが多くのヘリコプターのスムーズな救助活動を、影で支えているそうです。

 もちろん、個々の建物のヘリコプターによる災害救助の順番は、病人・子供・老人などの「災害時要援護者」を最優先に、女性、一般男性、建物の社員など、平然と順番を守って行われています。
 間違っても、船長(社長や従業員)が先に逃げたりは、していないそうです。

 やっぱり、日本人はすばらしいですね。
 災害に負けずに、「がんばろう 日本!」


 
 

2015年9月11日金曜日

宮城・茨城・栃木に「大雨特別警報」 東北・北海道も厳戒!~防災情報の発表状況と解説~  

 気象庁は、平成27年9月10日に、「栃木県・茨城県に大雨特別警報」を発表しました。
 さらに9月11日午前3時20分に、「宮城県にも大雨特別警報」を発表しました。

 台風18号から変わった温帯低気圧と台風17号の影響で、栃木県・茨城県・宮城県では「これまで経験したことのないような記録的大雨」となっています。
 栃木県の日光では、降り始めから雨量が630mmを超えていますし、茨城県の鬼怒川では堤防が決壊し、多くの死者・行方不明者が出ています。

 気象庁は記者会見を行い、「栃木県・茨城県・宮城県では、重大な危険が差し迫った異常事態と言っていい状況だ。」と述べ、厳重な警戒を呼び掛けています。

 台風18号崩れの低気圧の影響で、関東・東北地方には「アウターバンド(線上降水帯)」と呼ばれる台風の外側の帯状の長い雲がかかり続けていて、今後は日本の東海上にある台風17号の雲も重なって、11日にかけても東北・関東・北海道で、大雨・洪水の恐れが続きそうです。

 関東・東北・北海道地方のみなさんは、十分に警戒してください。

<写真 気象庁のレーダー画像 9月11日3時25分現在>


 

 ここからは、大雨・洪水に関する主な「防災用語」を、現在の発表状況とともに、紹介します。

 まず、宮城県・栃木県・茨城県に出されている「大雨特別警報」は、「台風や集中豪雨で数十年に一度の大雨が予想される場合」に発表される「大雨警報」の上に位置付けられている「スーパー警報」で、最大限の軽快が必要です。
 関東地方・東北地方に「特別警報」が発表されたのは、今回が初めてです。

 次に、「大雨警報」は、大雨により「重大な浸水災害」や「重大な土砂災害」などが予想される場合に発表されます。
 雨が止んでも、重大な土砂災害などのおそれが残っている場合は、発表が継続されます。
 9月11日3時30分現在で、「秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、千葉県」の8県に発表されています。

 また、「土砂災害警戒情報」は、大雨警報の出されている地域で、特に土砂災害の危険が迫っている地域に、避難を促す情報として、気象庁と都道府県が共同で出すものです。
 9月11日3時30分現在では、「秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、」の7県に発表されています。

 一方、気象庁が単独で発表する「洪水警報」とは別に、川の増水やはん濫などに対する水防活動や住民の避難行動の参考となるように、「気象庁と、国土交通省または都道府県の機関」とが共同して、「あらかじめ指定した河川」について、洪水の予報を行うのが、「指定河川洪水予報」です。

 危険度の高い順に、「レベル5 はん濫発生情報(洪水が発生している状態)」、「レベル4 はん濫危険情報(はん濫が発生する危険が差し迫っている状態)、「レベル3 はん濫警戒情報」、「レベル2 はん濫注意情報」、「レベル1 水防団待機水位」があります。

 9月11日午前3時30分現在、はん濫がすでに発生している=「レベル5 はん濫発生情報」は、「吉田川(宮城県)」と「鬼怒川(茨城県)」に発表しています。
 鬼怒川周辺では、多くの行方不明者・孤立者が出ていますし、吉田川周辺でも消防に救助を求める通報が相次いでいます。

 また、いつはん濫してもおかしくない=はん濫危険水位に達している「レベル4 はん濫危険情報」が発表されている河川も、11日3時30分現在で、「最上小国川(山形県)」、「宇多川(福島県)」、「新田川(福島県)」、「鳴瀬川(宮城県)」、「利根川水系桜川(茨城県)」の5河川に上っています。

<写真 鬼怒川の洪水(茨城県常総市)>


 

 最後に、区市町村などが出す「避難情報」について紹介します。
 避難情報は、強いものから順に、「1 避難指示」、「2 避難勧告」、「3 避難準備情報」の3つに分かれていて、「避難指示」が最も強い避難の呼びかけです。

 ただし、基本的には強制力はありませんので、避難の判断は個人ですることになります。

 「土砂災害」の場合は、ただちに避難が必要ですが、「洪水」の場合は、外へ出て避難するのと2階など建物の上階へ避難するのと、どちらが安全か、浸水の程度、周囲の状況、昼間か夜間か、などを基準に考えてから行動してください。


2015年9月10日木曜日

栃木県に「大雨特別警報」 関東・東北で大雨・洪水の危険 ~防災用語解説~

 気象庁は、平成27年9月10日午前0時20分に、「栃木県に大雨特別警報」を発表しました。

 台風18号から変わった温帯低気圧の影響で、栃木県では「これまで経験したことのないような記録的大雨」となっています。
 気象庁の弟子丸卓也予報課長は、10日午前1時25分から記者会見を行い、「栃木県では重大な危険が差し迫った異常事態と言っていい状況だ。」と述べ、厳重な警戒を呼び掛けています。

 台風18号崩れの低気圧の影響で、関東・東北地方には「アウターバンド(線上降水帯)」と呼ばれる台風の外側の帯状の長い雲がかかり続けており、今後は関東の東海上にある台風17号の雲も重なって10日から11日にかけても大雨・洪水の恐れが続きそうです。
 関東・東北地方のみなさんは、十分に警戒してください。さらに、11日には北海道でも大雨の危険があります。

<写真 気象庁のレーダー画像>



 ここからは、大雨・洪水に関する主な「防災用語」を、現在の被害状況とともに、紹介します。

 まず、栃木県に出されている「大雨特別警報」は、「台風や集中豪雨で数十年に一度の大雨が予想される場合」に発表される「大雨警報」の上に位置付けられている「スーパー警報」で、最大限の軽快が必要です。
 関東地方に「特別警報」が発表されたのは、初めてです。

 次に、「大雨警報」は、大雨により「重大な浸水災害」や「重大な土砂災害」などが予想される場合に発表されます。
 雨がやんでも、重大な土砂災害などのおそれが残っている場合は、発表が継続されます。
 9月10日6時現在で、「山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県、千葉県、石川県、福井県、鳥取県」の12都県に発表されています。

 また、「土砂災害警戒情報」は、大雨警報の出されている地域で、特に土砂災害の危険が迫っている地域に、避難を促す情報として、気象庁と都道府県が共同で出すものです。
 9月10日6時現在では、「山形県、福島県、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都、神奈川県、千葉県」の8都県に発表されています。

 一方、気象庁が単独で発表する「洪水警報」とは別に、川の増水やはん濫などに対する水防活動や住民の避難行動の参考となるように、「気象庁と、国土交通省または都道府県の機関」とが共同して、「あらかじめ指定した河川」について、洪水の予報を行うのが、「指定河川洪水予報」です。

 危険度の高い順に、「1 はん濫発生情報(洪水が発生している状態)」、「2 はん濫危険情報(はん濫が発生する危険が差し迫っている状態)、「3 はん濫警戒情報」、「4 はん濫注意情報」があります。

 このうち、いつはん濫してもおかしくない「はん濫危険水位」に達している「2 はん濫危険情報」が出されている河川は、10日6時現在で、いずれも関東地方の「鬼怒川、田川、中川、綾瀬川、渡良瀬川、姿川、里川、永野川、入間川」の9河川に上っています。

<写真 河川の洪水>



 最後に、区市町村などが出す「避難情報」について紹介します。
 避難情報は、強いものから順に、「1 避難指示」、「2 避難勧告」、「3 避難準備情報」の3つに分かれていて、「避難指示」が最も強い避難の呼びかけです。
 ただし、強制力はありませんので、避難の判断は個人ですることになります。

 「土砂災害」の場合は、ただちに避難が必要ですが、「洪水」の場合は、外へ出て避難するのと2階など、その場で上階へ避難するのと、どちらが安全か考えてから行動してください。






2015年9月9日水曜日

「台風18号」9月9日午前中にも本州に上陸の恐れ 特に大雨に警戒!

 台風18号「アータウ」が本州に近づき、9月9日午前中にも東海~近畿に上陸する恐れが強くなっています。
 今回は、中国・四国~東北・関東までの広い範囲で、大雨に注意してください。
 特に、東海・北陸・関東で警戒が必要です。

 気象庁の発表では、9月9日3時現在、台風18号は静岡県浜松市の南180km(北緯33度05分、東経137度55分)にあって、北へ35km/hの速さで進んでいます。
 中心の気圧は985hp(ヘクトパスカル)、中心付近の最大風速は25mです。
 また、中心から北東側330km、南西側170km以内では、風速15m以上の強風が吹いています。
 

 
 
 今回は、特に大雨に警戒が必要です。
 大雨の警報としては「大雨警報」と「洪水警報」があり、さらに厳重な警戒を要する「特別警報」として「大雨警報」があります。
 また、土砂災害の恐れが非常に高まった場合には、「土砂災害警戒情報」が発表される場合があります。
 
 これらの警報・特別警報や、自治体から発表される「避難指示」(一番強い)、「避難勧告」、「避難j準備情報」などを基準に、早めに避難してください。
 ちなみに、台風18号は「アータウ」は、英語(アメリカ)の言葉で「嵐雲」の意味です。
 
 
<台風被害(浸水)の写真>


 
 気象庁のホームページなどから、「台風への備え」を、改めて紹介しますので、もう1度、確認してください。
(1) 家の外の備え(風雨が激しくなる前)
  水害に備え、側溝や排水溝の掃除をし、水はけをよくする。また、屋根、塀、壁などの点検、補強も台風が来る前に行っておく。
(2) 非常用品を備蓄
 ライフライン(水道・電気など)が途絶えたときの事を想定して、非常用品を備えましょう。食料・水・電池等は、救助・復旧に必要な、概ね3日分程度が必要と言われています。
<備蓄推奨品>
・ 懐中電灯(LEDライト)やマッチ・ライター
・ 情報取得・通信手段(携帯・スマホやラジオと電池・充電器など)
・ 非常用食料と飲料水(3日分)
・ 貴重品(小銭を含むお金など)
・ 薬(特に病気の人)やおむつ(幼児がいる家庭)
・ 生活用水(お風呂に水をためておくと、水洗トイレや洗い物等に使えます)
(3)家族で話し合っておく
 避難場所やルート・方法、落ち合う場所・連絡方法などを、家族で話し合い確認しておきましょう。
 できれば、地元自治体(区・市町村等)のホームページなどで、「ハザードマップ」を確認・取得しておきたいものです。
 
 
 台風への備えと非難は、早めにしっかりと余裕をもって行い、厳重に警戒してください。
 

2015年9月6日日曜日

挑戦者の駅「東京駅」~夢あふれる日本の中央駅~

  「ここは、挑戦する人の集う駅」

 2015年春、東京駅構内にこんな広告ポスターが貼られていました。
 東京日動火災という会社のグラフィック広告ですが、すごくインパクトがあり、それを見て、「なるほど」と思いました。
 今回は、「挑戦する人の集う駅=東京駅」をテーマに、ブログを書きたいと思います。

 北から上京してきた人たちが最初に降りるのが「上野駅」であるのに対し、西から上京してきた人が最初に降りる駅が「東京駅」です。
  最近は、東京~上野間に新幹線が開通したり、品川駅に新幹線が停車するようになって、少しその色が薄れていますが、東京駅が東京を象徴する駅で、上京するものの「チャレンジ」の始まりの駅であることには、変りがないと思います。

<東京駅構内の広告>

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 東京駅が出てくる歌もたくさんありますが、私が初めて東京駅に立った時、頭に浮かんだのは太田裕美の「赤いハイヒール」という歌の一節でした。
 
♪東京駅に着いたその日は 私おさげの少女だったの
  胸ボケットにふくらむ夢で 私買ったの赤いハイヒール♪
(「赤いハイヒール」 作詞 松本隆 作曲 筒美京平 歌 太田裕美 1976年)
 
 この歌は、前作で同じ太田裕美さんが歌った大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」の歌詞
 「♪恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で♪」
を受けたものだと思います。

 さすがに「赤いハイヒール」は買いませんでしたが、上京した日に、東京駅八重洲口の店で記念のグッズを買った記憶があります。

 最初に紹介した東京日動火災の広告には、実はいくつかのバージョンがあり、こんな言葉もあります。
 「東京には夢がある。挫折もある。どちらも人を強くする。」
 確かに、地方から上京したものにとって、東京は夢と挫折の都で、その象徴が「東京駅」なんだと思います。
 
 東京駅は、日本の「中央駅」として、第1次世界大戦が始まった1914(大正3)年12月18日に完成しました。
 当時の出入口は、丸の内側(皇居側)のみで、八重洲口が完成したのは、15年後の1929(昭和4)年でした。

 東京駅は、東京都千代田区丸の内1丁目にあり、東日本旅客鉄道(JR東日本)と東海旅客鉄道(JR東海)、そして東京地下鉄(東京メトロ)の駅です。


 「プラットホーム」の数は日本一多く、在来線(東海道本線、東北本線、総武本線、京葉線の4路線)が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線(東北新幹線と東北新幹線)が地上5面10線、地下鉄(丸ノ内線)は地下1面2線です。

 東京駅に乗り入れている「正式な路線」は先ほど紹介したとおり、在来4路線、新幹線2路線、地下鉄1路線で、IRの所属は東海道線です。
 実際に乗り入れている路線(運転系統)をホーム順に紹介すると、次のとおりです。

<在来線地上ホーム(JR東日本)>
・1、2番線=中央線
・3番線=京浜東北線
・4、5番線=山手線
・6番線=京浜東北線
・7,8番線=上野東京ライン
・9,10番線=東海道線

<総武地下ホーム(JR東日本)>
・1,2番線=横須賀線
・3,4番線=総武線(快速)

<京葉地下ホーム(JR東日本)>
・1~4番線=京葉線、武蔵野線

<新幹線ホーム>
・14~19番線=東海道新幹線(JR東海)
・20~23番線=東北・山形・秋田新幹線、上越・北陸新幹線(JR東日本)

<地下鉄ホーム(地下鉄メトロ)>
・1、2番線=丸ノ内線

<東京駅山手線の0キロポスト>

イメージ 2

 

 東京駅で特徴的なのが、起点駅を示す「Oキロポスト」(写真)がホーム沿いの線路にあることで、東京駅へ着く列車はすべて「上り」、東京駅から出る列車はすべて「下り」です。
 そのことから、なぞなぞで、「日本一高い駅」と言われたこともあります。

 ちなみに、東京駅の1日の乗降客数は113万人余りで、全国7位(1位新宿、2位池袋、3位大阪・・)にランクされています。

 東京駅の丸の内口側は、従来、「皇居の正面玄関駅」としての位置づけがあり、あまり商業開発がされていませんでした。
 しかし、平成になって「東京駅ルネッサンス計画」で、1945年に空襲で焼失した駅舎を復元し、商業化が進む「丸ノ内オフィス街」と連携した開発が進んでいます。
 さらに、「東京ステーションギャラリー」や「東京ステーションホテル」なども改装されています。
 なお、「丸の内口駅舎」は、2003年に国の重要文化財に指定されています。

 一方、八重洲口側はもともと商業施設が多い場所でしたが、再開発が進み、デパートの「東京大丸店」や、地下街の「東京駅一番街」や「八重洲地下街」がその中核となっています。


 ただし、最近は、エキナカ(文字通り東京駅の中)に、多くの商業施設や飲食店ができ、イベントなども開催されています。
 東京駅再開発事業のスローガンの「東京駅が街になる」の言葉どおり、まさに東京駅全体が街になっています。


<東京駅周辺地図>



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  実は、私は東京駅に隣接するビルで仕事をしていたことがあります。この時に感じた2つの疑問がありました。

 1つ目は、「東京駅に乗り入れている地下鉄が丸ノ内線だけで少ないこと」
 2つ目は、「東京ディズニリゾートなどに行く京葉線のホームが異常に遠いこと」
です。

 1つ目の答えを、「ヤフー知恵袋」で見てみると、「近くに大手町駅など、多くの地下鉄路線が乗り入れている駅があるから必要ない」とか、「皇居をはじめ古い建物が多く、大きな道路も少ないため地下鉄が乗り入れしにくい」などの答えが出ていました。

 確かに大手町駅から東京駅までの連絡通路はありますが、結構遠くて、朝の通期時間には、若い女性が何人も倒れるのを目撃しました。
 再開発の一環で、何とか東京駅への地下鉄の乗り入れ路線を増やしてほしいものです。

 2つ目の「京葉線ホーム」が、南に500mも離れていることについては、明確な理由があります。
 実は、「成田新幹線」の計画があって、京葉線ホームは新幹線ホームになるはずだったそうです。
 計画に反対する意見が多くて、新幹線のホームは夢で終わり、京葉線のホームとして「夢の国・ディズニーリゾート」への入り口になったようです。
 「動く歩道」はいくつもありますが、それにして京葉線へのアクセスの改善も諮ってほしいと思います。

 おしまいは、例によって夢のある話といい話をします。

 今年の8月末、高さ390m地上61階建ての「日本一高いビル」を東京駅前に建てる計画が発表されました。完成するのは、2027年の予定です。

 現在、日本一高いビルは、大阪の「あべのハルカス」(300m)ですので、それを上回り、東京タワー(333m)の高さも超えることになります。

 なぞなぞで上り列車のない下り列車だけの「日本一高い駅・東京駅」の駅前に、本物の「日本一高いビル」ができれば、すごく夢のある話だと思います。
 余談ですが、世界で最も高いビルは、アラブ首長国連邦にある「ブルジュ・ハリファ」で828メートルもあるそうです。

 最後に、もう一つ、東京日動火災の「東京駅周辺に貼り出された広告」を紹介します。


<東京駅構内のポスター>
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「故郷から出てきた人も、故郷に帰る人も挑戦者だ。」

 そうなんです。ここまで、東京駅へ上京して来た人の挑戦の話をしてきましたが、東京駅から故郷へ帰る人も、挑戦者(チャレンジャー)なんです。

 東京駅には「21世紀出陣弁当」という、ポジティブな駅弁もあります。
 ぜひ、みなさんも私も、この駅弁を食べながら「21世紀」に挑戦していきましょう。

<一句>
 東京は 夢と未来に 挑戦の街