2015年10月17日土曜日

ラジオの神様「浜村淳」~40年以上毎朝2時間超の生放送、神様と神様の話~

 関西に、「ラジオの神様」と呼ばれるラジオパーソナリテイがいます。

 41年以上、日曜日を除く毎朝、2時間30分から3時間30分もラジオの生放送をしている「浜村淳(はまむら じゅん)」さんです。
 今回は、「ラジオの神様・浜村淳さん」について紹介します。


 関西圏のラジオ聴取率調査では、常にトップにいるMBS(毎日放送=大阪)ラジオの番組「ありがとう 浜村淳です」は、月曜から土曜まで朝8時から10時30分(土曜は11時30分)まで生放送されています。
 1974(昭和49)年4月8日に第1回が放送され、2015年で41年間、放送は続いています。

 吉本興業にも所属したことがある司会の浜村淳さんの軽妙な語り口で、週刊誌や新聞などから時事問題を取り上げて、おもしろおかしく流れる話が魅力のいちばんです。

 例えば、2015年10月16日の番組では、ももいろクローバーZの男子限定コンサートの問題を紹介し、「ももクロとユニクロの違いは?」などとおもしろおかしく話します。

 浜村さんの、よく使うフレーズをいくつか紹介します。

(1) 「持った湯のみをバッタと落とし、小膝(こひざ)たたいてにっこり笑い」

 いいアイデアを思いついた様子を表現する時によく使います。
 思いついた人は、ナポレオンや卑弥呼などの歴史上の人物(フランスや邪馬台国に湯のみがあるかどうかは気にしません=笑)から、ピース又吉や堀北真希などの芸能人・一般人まで、老若男女を問わず、誰にでも使います。
 元は、浪曲『石松三十石船』からの引用だそうです。

(2) 「遠くて近きは男女の仲、近くて遠いは田舎の道」
 
 芸能人の結婚・恋愛ネタの時の前振りでよく使います。
 男女の仲は他人にはよくわからない、田舎の人が「すぐ近くのとなりの家」と言うと一山越えるような遠いこともある、というような意味です。

(3) 「聖徳太子(聖武天皇)さまが、お聴きになっても『これは古い!』とおっしゃるほどの(古い出来事)」

 文字通り、「古いこと」の例えですが、時代は太古でなくても、昭和でも平成でもよく、「感覚的に古い出来事」に使います。

<毎日放送本社ビル(大阪府大阪市)>



 今の紹介で、「ありがとう浜村淳です」をお聞きになったことがない方にも、少し雰囲気はわかっていただけるかなと、思います。

 関西圏を中心とした「毎日放送ラジオ(MBS=1179kHz)」の聴取可能地域以外でも、「ありがとう浜村淳です」のホームページで、インターネット放送を無料で聴くことができますので、ぜひ、聴いてみてください。(はまりますよ。)

 また、「ラジコプレミアム(rajiko.jp)」という有料放送(月350円+消費税で全国のラジオを聴取できます)なら、全国でリアルタイムで聴くこともできます。

 ラジオの長寿番組としては、「ラジオ体操」(NHK、1928年~)や「NHKのど自慢」(NHK、1946年~)、 「永六輔の誰かとどこかで」 (TBSラジオ 1967年~)や「オールナイトニッポン」 (ニッポン放送、1967年~)など他にも多数ありますが、1人のパーソナリティが日曜を除く毎日、2時間以上も生放送をして40年以上も続いている番組は、「ありがとう浜村淳です」だけだと思います。

  「ありがとう浜村淳です」のすごいところは、まだまだあります。
 まず、放送局側の都合(特別番組など)以外では、司会の浜村淳さんは、ほとんど休んだことがありません。41年以上ですから、すごいです。

 また、8時から9時までは、原則音楽をかけません(著作権の関係)。さらに、この時間帯はCMも1回しか入れません。
 この状態で、マンネリ化せず、高い聴取率を、「笑いに厳しい関西」(?)で維持しているのは、まさにレジェンド=神様だと思います。

 浜村淳さんは、80歳(番組内では年齢非公表=アランドロンと同じ年と言っています)ですが、毎朝5時に起床して、自家用車を運転しながら毎日放送のラジオスタジオへ向かう」という生活を40年以上にわたって継続しています。
 毎朝6時前後に毎日放送に到着して、放送開始の8時までの約2時間を、放送に使う「ネタ」の整理に充てているそうです。
 すごい元気と気力ですね。

<写真 浜村淳さんの卒業した「同志社大学文学部」>



  浜村淳(はまむら・じゅん)さんは、1935(昭和10)年1月10日に京都府京都市で生まれました。本名は、塩濱眞(しおはま・まこと)で、養父母に育てられました。

 京都府立山城高等学校、同志社大学文学部の卒業で、学生の頃からジャズ喫茶やクラブで司会のアルバイトをしていました。
 大学の同じゼミに、オリコン創業者での小池聰行元社長がいました。
 また、歌手の森高千里さんの父の森高茂一さんとは、ジャズ喫茶時代からの友人です。
 
 卒業後も靴下メーカーの宣伝部で働きながら、司会を続けました。
 渡辺晋(渡辺プロダクションの社長)さんに声をかけられ上京し、芸能界入りをします。
 その後、現在まで、関西を中心に、司会者、ラジオパーソナリティ、映画評論家として、活躍しています。

 司会者としては、「全日本有線大賞」(読売テレビ、1968年~1991年)や、「2時のワイドショー」(日本テレビ系<読売テレビ> 1979年~1980年)など、様々な番組・イベントで活躍しています。

 他にもテレビ出演では、おにゃんこクラブで有名な「夕やけニャンニャン」(フジテレビ、1985年~1987年)や「ゲーム ホントにホント?」(1975年 - 1981年、NHK)、そして朝の連続テレビ小説などにも出演しています。
 もちろんラジオ番組も、毎日放送やTBS、NHK(大阪)などを中心に多く出演しています。

 また、映画評論家としても有名で、映画の番組やイベント・試写会の司会の他、映画「風、スローダウン」(1991年) や映画「大奥」(2010年)などに、自らも出演(チョイ役?)しています。

 他に「USJ」などのCMや、NMB48のプロモーションビデオにも、出演しています。

 さらに、芸能人としては初めて、国立大学(和歌山大学経済学部)の講師になったことでも有名で、追手門学院大学文学部講師もつとめました。

 2009(平成21)年に、「第4回おおさかシネマフェスティバル特別賞」を受賞し、2011(平成23)年には、「第37回放送文化基金賞 放送文化賞」も受賞しています。

<浜村淳さんの著書>



 最後は、以前、このブログで「落語の神様」として紹介した落語家の桂米朝さんと「ラジオの神様」浜村淳さんの、神様同士のエピソードを紹介します。

 若い頃の浜村淳さんが、大阪ミナミのジャズ喫茶で司会をしていた時のことです。
 桂米朝さんが現れ、浜村さんにこう言ったそうです。
「今、上方落語は人が少ない。あんた、私の一門に入って、噺家(はなしか)にならんか。」

 当時の米朝さんの弟子は、桂小米さん一人だったそうで、流暢に喋る浜村淳さんに目を付けたのは、さすがですね。(ちなみに、当時の唯一の弟子・桂小米さんは、のちに天才落語家と言われた桂枝雀さんです。)
 
 浜村淳さんは、じっくり考えた上で、
「今は司会の仕事を目指しているので、噺家はお断りさせていただきます。」
と丁重にお断りしたそうです。

 残念そうな顔の桂米朝さんに、浜村さんがこう聞きました。
「ちなみに、私が弟子入りしていたら、師匠は私にどんな名前をつけるつもりだったのですか。」

 桂米朝師匠は、にっこりと笑って答えました。
「そうやなあ。桂盲腸じゃなあ。」

「ええっ、盲腸とか脱腸は、いけまへんわ。」
 浜村さんの返事に、二人の神様は大爆笑したそうです。

 桂盲腸(浜村淳)さんの落語も、聞いてみたいような気がしますね。

 浜村淳さんの著書「さてみなさん聞いてください 浜村淳ラジオ話芸」(2003年、西日本出版社)という本の帯には、こう書いてあります。

 「聞く人に幸せが届きますように 祈りを込めて 死ぬまでしゃべり続けます」
 ぜひ、ずっとずっとお元気で、楽しい浜村節を続けてほしいものです。


<一句>
40年 笑いと元気を ありがとう


 

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