2015年12月2日水曜日

旅人・阿藤快さん永遠に旅立つ ~なんだかな、一日一生~

   「なんだかな」、
という決めゼリフで有名な自称「旅人」、他称「俳優、タレント」の阿藤快(あとう かい)さんが、2015年11月14日、あの世に旅立たれました。
 今回は、旅人・阿藤快さんの話をしたいと思います。


 阿藤快(旧芸名 阿藤海)さんは、本名「阿藤公一(あとうこういち)」さんで、終戦の翌年、1946(昭和21)年11月14日、神奈川県小田原市に生まれました。

  中学の時は野球に熱中し、入学した神奈川県立西湘高等学校に野球部がなかったことから2年の時に退学、野球名門高校に編入しようとしますが不合格になり、再び西湘高校に戻ります。
  高2で退学、しかも編入に失敗なんて、「なんだかな」ですね。

 大学は東京都立大学法学部に入学し、司法試験を目指しますが、2年生でドイツ語の単位を落として諦めます。ここでも、「なんだかな」ですね

<阿藤快さんの母校 東京都立大学 (現 首都大学東京>



 大学を卒業した阿藤さんは、1969(昭和44)年、23歳の時に、当時演出家としてはまだ無名に近かった蜷川幸雄監督の舞台『真情あふるる軽薄さ』に、機動隊員役として出演しました。
 きっかけは、「新聞広告で募集していてなんだか面白そうだったから」だそうです。

 その縁で、「俳優座」の舞台部に入り、裏方として大道具の仕事などをやって1年半が経ち、「そろそろやめ時かな」と思っていた時に、阿藤さんに転機が訪れます。
 原田芳雄さんと中村敦夫さんに誘われた、裏方から表舞台の俳優を目指すことになりました。

 阿藤さんは、1971(昭和46)年に、中村敦夫さん、市原悦子さん、原田芳雄さんらと共に、俳優座を退団しました。

 それから、1970年代から1980年代の終わり近くまで、20代から30代の阿藤さんは、人気テレビ番組に次々に出演します。

 「太陽にほえろ」(1973年~1987年、日本テレビ)をはじめ、「大江戸捜査網」(1975年~1979年、テレビ東京)、「水戸黄門」(1978年~2011年、TBS」、そして「西部警察」(1979年~1982年、テレビ朝日)と、錚々(そうそう)たる番組に出演しました。

 ただし、ほとんどが端役で、特に犯人役が多かったようです。
 「太陽にほえろ」では7回、「西部警察」では11回の出演のほぼ全てが犯人役ということで、当然、人気は出ませんでした。また「なんだかなー」ですね。

 プライベートでは、1973(昭和48)年、27歳で結婚し、男の子が生まれていますが、その後、離婚しています。
 家族のことは、公表されていませんので詳しくはわかりませんが、週刊誌などの情報では、2度結婚、2度離婚され、お孫さんもいるみたいです。

 1988(昭和63)年、『教師びんびん物語』(フジテレビ)に、主人公・徳川龍之介(田原俊彦)の上司の教頭・御前崎マキオ役で出演したのをきっかけに、阿藤さんの好演が受けて、一躍、人気俳優になりました。時に、阿藤さん、41歳でした。
 ちなみに、この時、ドラマを企画したスタッフの一人には、現在のフジテレビの亀山千広社長がいます。

 その後、次第に、重要なポストでドラマや映画に出演するようになり、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国」(2011年、NHK)などにも出演します。

 さらに、バラエティや旅番組にも多く出演し、中でも「ぶらり途中下車の旅」(日本テレビ)には、1994(平成6)年から2011(平成23)年まで、計61回も出演しています。「なんだかな」の決めセリフ?は、この番組の中で使い有名になりました。

 阿藤さんは、2001(平成13)年11月14日に、芸名を「阿藤海から阿藤快」へ改名しています。きっかけは、占星術の先生に、「名前の画数がよくない」と言われたことでした。
 ちなみに、「阿藤かい」という名前は、初恋の人が「あい」さんだったから、似ている芸名にしたとも言われていますが、真偽のほどは不明です。

 阿藤さんの気さくで飾らない人柄は、芸能界でも人気で、「芸能界一、いい人」(タモリ)とも言われています。
 また、競馬と旅が好きで、競馬の予想サイトを立ち上げ、自称「旅人」と称して活躍しました。

<神奈川県小田原市>



 阿藤さんは生まれ故郷、神奈川県小田原市を愛し、もとの芸名「阿藤海」さんの「海」の字は、相模湾のことだとも言われています。
 2010年には、「小田原ふるさと大使」に任命され、「小田原映画祭」や「小田原北條五代祭り」に毎年参加し、盛り上げました

  「小田原城動物園」の象のウメ子が、2009年に亡くなった時には、阿藤さんの公式ホームページに、こんなコメントを出しています。


 「 小学校の遠足はゾウのウメ子に会いに行き、また俳優になって何度もウメ子を取材しました。
  そのウメ子が9月に亡くなったそうです。
  残念の一言、人の生き死にも動物も思い出を残して消えていきます。

  だからで。。。。。みんなを楽しませてくれて ウメ子 ありがとう!!!!!」 阿藤 快

 人間にも動物にも、やさしい阿藤快さんでした。

 そして、2015(平成27)年11月14日、阿藤さんは、東京都新宿区の自宅で「大動脈破裂胸腔(きょうくう)内出血」という病気で亡くなりました。
 この日は、69歳の誕生日で、「阿藤快」さんに改名してからも、ちょうど14年になる日でした。

 阿藤快さんは、幕末の英雄「坂本龍馬」を敬愛していました。坂本龍馬は、11月15日が誕生日で、阿藤快さんとは1日違いです。
 しかも、龍馬は「誕生日と命日が同じ」11月15日ですが、阿藤快さんも誕生日と命日が同じで、11月14日になりました。
 これには、阿藤さんも大満足かも、知れませんね。

<阿藤快さんの遺影>




 阿藤さんの座右の銘は、「一日一生」でした。
 これは、「今日一日を自分の一生の最後の日だと思って、大切に精一杯、生きる」
というような意味だと思います。

 2015年、亡くなる直前まで、阿藤快さんは活躍されていました。
 TBSの人気ドラマ「下町ロケット」に出演されていましたし、11月20日、小田原市で行われた通夜では、阿藤さんの棺(ひつぎ)に、遺作となった舞台「MOTHER 特攻の母 鳥濱トメ物語」の台本などが入れられました。

 遺影には、小田原の英雄「北条早雲に扮(ふん)」した、甲冑(かっちゅう)姿で笑顔の阿藤快さんの写真が使われ、斎場には阿藤さんの友人の俳優・女優やファン、そして多くの小田原市民が駆けつけました。 

 「一日一生」をモットーに、69年ピッタリの人生を終わられた阿藤快さんの死は、残念の一言です。 でも、「人間も、思い出を残して消えていく」ものです。
 みんなを「やさしく」楽しませてくれて、阿藤快さん、ありがとう!!!


<一句>

 快さんが  天に旅立つ  何だかな   

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