2015年12月8日火曜日

追悼:ゲゲゲの漫画家「水木しげる」(2)~妖怪と好きの力を信じて片手で奮闘 ~

  「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家「水木しげる」さんの追悼ブログの2回目(後半)は、1950(昭和25)年、28歳の時に、神戸市兵庫区水木通にあった安宿を買って、アパート「水木荘」と名付け、経営を始めたところから再開します。

 この「水木荘」には、大家の水木しげるさんと同じ、変わり者ばかりが入居したため、家賃収入が少なく経営は苦しかったようです。

 しかし、人生、どこに幸運が落ちているのかわからないものです。
 この安アパート「水木荘」は、お金の代わりに、水木しげるの人生にとって大切な転機となる「2つのプレゼント」をしてくれました。

 1つは、この「水木荘」からとったペンネーム「水木しげる」こそが、彼の一生の宝物になったことです。(本当は、ここで初めて「水木しげる」が登場します。)

 そして、もう一つは、この「水木荘」に入居してきた紙芝居作家の弟子の青年の紹介で、水木は「紙芝居」の会社の社員になることができ、大好きな「絵」を家業にする第1歩を踏み出すことができたことです。

 1953(昭和28)年、31歳の時にアパート「水木荘」を売却し、兵庫県西宮市に移り、当時、繁盛して「紙芝居の専業作家」として、「絵」の制作に没頭します。
 この頃、「空手鬼太郎」や「河童の三平」などの作品が書かれています。

 1957(昭和32)年、水木しげるさんは上京し、やがて東京都調布市に住むようになります。
 翌1958(昭和33)年には、正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版します。35歳で、ついにプロの「貸本漫画家」となりました。

 「貸本漫画家」の収入は、「紙芝居作家」よりは遥かによかったのですが、水木しげるの遅筆と、「作風が暗い」という評価で、なかなか安定した生活はできませんでした。

 そんな中、1960(昭和35)年には、「墓場の鬼太郎(のちのゲゲゲの鬼太郎)」の誕生を描いた第1話『幽霊一家』と第2話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表しています。

<写真 鬼太郎列車(JR境線 鳥取県米子駅~境港駅)>



 1961(昭和36)年には、水木しげる(本名・武良 茂)も39歳になり40歳を目前に、鳥取の両親から縁談を進められます。
 この時の見合いの相手が、のちに「ゲゲゲの女房」となる飯塚布枝(いいずか・ぬのえ)さんで、29歳でした。
 今なら、2人とも、全然、若いのですが、当時は、男40歳、女30歳は超晩婚でした。
 そんな2人は、見合いから5日後に、スピード結婚します。

 因(ちな)みに、水木しげるの生涯で、見合いから結婚までの5日間だけ、左手に義手をつけました。これは、母・琴江の厳命によるものですが、決して左手がないのを、水木が隠した訳ではありませんでした。
 むしろ、腕が1本でも堂々としていて、「ないものを、あるように見せるのは、俺はすかん。」と言って、目の前で義手をとった茂(水木しげる)さんに魅かれたと、後に布枝さんは語っています。

 水木さんの妻・布枝さんが原作者のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」には、こんなシーンがあります。

 貧乏が極まり、漫画家廃業を茂(水木しげる)が考えた時に布枝さんは……
 「お父ちゃんは強い人。腕が三本だから何とかなりますよ。」と励ましました。
 「腕が三本」とは、茂の手一本と布枝の手二本を合わせて三本というこです。

  それほど、2人は愛し合っていたのだと思います。

 1965(昭和40)年、『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』が、「第4回講談社児童漫画賞」を受賞して、43歳にして水木しげるは、人気作家の仲間入りを果たします。

 1966(昭和41)年には、「水木プロダクション」を設立し、同年「悪魔くん」がテレビアニメ化されます。
 そして、1968(昭和43)年、スポンサーの同意をとるため「墓場の鬼太郎」を改名した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化され、大人気になり、妖怪ブームを巻き起こします。

 以後、「ゲゲゲの鬼太郎」は、1971(昭和46)年、1985(昭和60)年、1996(平成8)年、そして2007(平成19)年と、5回もテレビアニメ化されています。
 また、2007(平成19)年と2008(平成20)年の2回に渡って、「ゲゲゲの鬼太郎」が映画化(いずれも松竹)されました。

 さらに、1991(平成3)年には、NHKで、水木しげるの少年時代を描いたテレビドラマ『のんのんばあとオレ』が放送され、2007(平成19)年には、ラバウルの戦争体験を元に書いた『総員玉砕せよ!』が、『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』のタイトルでNHKテレビでドラマ化されました。

 そして、2010(平成22)年には、妻の布枝さんが書いた夫婦の物語「ゲゲゲの女房」がテレビドラマ(NHK朝の連続テレビ小説、主演=松下奈緒、向井理)と、映画(主演=吹石一恵、宮藤官九郎)になり、特にテレビドラマは大ヒットしました。

 水木しげるさんの主な受賞歴としては、1996(平成8)年に「日本漫画家協会賞文部大臣賞」を受賞し、2010(平成22)年には「文化功労者」にも選ばれています。

 海外でも評価が高く、 2007(平成19)年には、フランスの「アングレーム国際漫画賞」の 最優秀コミック賞を日本人で初めて受賞し、2012(平成24)年には、漫画界のアカデミー賞と言われているアメリカの「アイズナー賞」も受賞しています。

<鬼太郎バス(東京都調布市)>

 


 最後は、水木しげるさんの名言を、「幸福の7箇条」にあてはめて紹介したいと思います。改めて水木しげるさんの「幸福の7箇条」を書いておきます。

第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第2条 しないではいられないことをし続けなさい。

第3条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第4条 好きの力を信じる。

第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第6条 怠け者になりなさい。

第7条 目には見えない世界を信じる。


(水木しげる著「水木サンの幸福論」(角川書店)より)


 それでは、水木しげるさんの名言を紹介します。
 

〇 「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある。」

  これは「玉砕命令」を受けても、空爆で片腕になっても、93歳まで一流の漫画家として、がんばってきた水木さんのプライドを語った言葉だと思います。
 幸福7箇条の「第3条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。」にあてはまりますね。


〇 「私が幸福だと思うのは、長生きして、勲章をもらって、エラクなったからではありません。好きな道で60年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。ノーベル賞をもらうより、そのことの方が幸せと言えるでしょう。」

  この言葉は、水木さんの「幸福7箇条」の「第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。」と、第2条「しないでいられないことを、やり続けなさい。」に、通じるのだと思います。
 好きな道を、やりたいことを、必死でやることが幸せ。この言葉は、たくさんの職業を試して失敗し、ついには「好きな絵」を書くことを職業にした、水木さんの誇りと後進へのアドバイスだと思います。
 まさに「第4条 好きの力を信じる」ことを続けてきた、水木さんの幸福な経験を語っています。


 おしまいに、「幸福の7箇条」のうち、不思議な言葉が並ぶ「5条、6条、7条」の話をします。

〇 第5条の「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」は、苦労しても努力しても報われなかった水木さんの「悲惨な」前半生から得た教訓です。

〇 第6条「なまけ者になりなさい。」は、水木さんが色紙によく書いた言葉です。水木さんは、こんなことを言っています。
 「若いときは怠けては駄目です!でも、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきです。
 ときどき怠けることは、生きていくうえで大切なことです。そして、仕事でも役立つのです。」  

 睡眠時間を惜しみ、過労で死んでいった仲間を見て、水木さんが感じた教訓です。でも、水木さん本人は、93歳まで怠けずに漫画を描き続けました。

〇 そして最後の第7条は、「目に見えない世界を信じる。」です。
 水木さんの妖怪研究は本物で、1995(平成7)年に「世界妖怪協会」を、荒俣宏さん、京極夏彦さん、多田克己さんらと設立し、会長に就任しています。

 この「世界妖怪協会」は、「世界遺産」ならぬ「怪遺産」を認定しています。
(1) 2007年に、水木さんが育った「鳥取県境港市」を認定
(2) 2008年に、子泣き爺などの伝承が残る「徳島県三好市山城町」を認定
(3) 2010年には、「遠野物語」などで知られる「岩手県遠野市」を認定

 水木しげるさんは、「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎たち妖怪だった。」と語っています。
 少年のような純粋な心を持ち続け「目に見えない世界を信じた」水木しげるさんには、妖怪たちが見えていて、助けてくれたのでしょう。

<写真 水木しげるさんが生前建てた墓(東京都調布市)>




 2015(平成27)年11月30日、水木しげるさんは93歳で、東京都三鷹市の病院で多臓器不全のため永眠されました。

 水木しげるさんは、自宅のある東京都調布市の「覚證寺」に生前墓を作られていました。
 お墓の右前には、「鬼太郎と目玉おやじ」の像、左前には「ねずみ男」の像が飾られ、周りには無数の妖怪のレリーフが刻まれています。
 ネットでは、「毎晩、妖怪大運動会が開催されているのでは?」とも言われています。

 多くの妖怪たちに囲まれた墓で、水木しげるさんは、「やっと、目に見えない世界の住人になれたな」と、喜んでいるような気がします。

 水木しげるさんは亡くなられても、鬼太郎やねずみ男、目玉おやじ、猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、ぬりかべ、一反木綿などなど、水木さんが描いた妖怪たちは、漫画やアニメ、映画、そして全国各地にある銅像や私たちの心に、長く永く生き続けることだと思います。

 水木しげるさん、やっと両手で漫画が書けますね。
 ゆっくり、休んでください。合掌。


<一句>

 妖怪は 人と自然の 架け橋だ

 妖怪と 一緒に眠れる ゲゲゲのゲ

 
 

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