2015年12月6日日曜日

追悼 ゲゲゲの漫画家「水木しげる」(1)~悲惨な前半生と幸福の7箇条~

  「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家「水木しげる」さんが、2015(平成27)年11月30日、多臓器不全のため亡くなられました。93歳でした。

 このブログでは、「水木しげる」さんの生涯と名言を紹介したいと思います。
 今回はその前半で、「不合格、退学、くび、そして戦争、片腕喪失」という悲惨な言葉が並ぶ前半生と、それを乗り切るために生まれた「幸福の7箇条」を紹介します。

 水木しげるさんと言えば、向井理さんと松下奈緒さんが夫婦役を演じて高視聴率を記録した、2010(平成22)年放送のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を思い浮かべる方も多いと思います。

 私自身、「ゲゲゲの鬼太郎」と水木しげるさんの名前は知っていましたが、このドラマで初めて、水木さんが片腕であることを知りました。それだけ、水木さんは、片腕のハンディを感じさせない一流の漫画家だったということだと思います。

 実は、「ゲゲゲの女房」の原作は、水木しげるさんの奥さんの武良布枝(むら・ぬのえ)さんが、夫婦の半生を書いたものでした。

<写真「ゲゲゲの夫婦(水木しげる・布枝夫妻)の銅像」(鳥取県境港市)> 

 
 





 水木しげる、本名・武良茂(むら・しげる)さんは、1922(大正11)年3月8日、大阪府大阪市住吉区で生まれています。
 生まれて間もなく、父親・亮一さんの仕事の都合で、亮一さんの故郷である鳥取県境港市に引っ越し、そこで幼年期・少年期を過ごします。

 水木さんが幼い頃、鳥取の武良家には、「まかないつき」で手伝いに来ていた「景山ふさ」さんというおばあさんがいました。
 通称「のんのんばあ」と呼ばれたこのおばあさんが、しげる少年に、「妖怪」や「地獄」などの「もう一つの世界」の話をしてくれました。これが水木しげるさんの漫画の原点になっています。

 後に、水木しげるさん自身が、「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない。」と語っています。

   水木しげるさんは、3人兄弟の次男ですが、兄と弟が勉強がよくできて旧制中学へ進学したのに対し、水木さんは勉強が苦手で、ゆっくり朝食を取り、2時間目から学校へ行くほどのマイペースでした。
 1年遅れて入った尋常小学校でも、「体育」と「図画」以外の成績は悪く、旧制中学への進学は叶いませんでした。

 1937(昭和12)年、しげるさん13歳の時に、鳥取を離れて大阪の印刷会社に就職します。
 しかし、マイペースな性格で、会社は立て続けに2回も首になり、美術や園芸の学校の試験にも落ちます。

 結局、大坂の夜間中学で学ぶことになりますが、1943(昭和18)年、21歳の時に、「召集令状」が来て軍隊に入ります。

  軍隊では、「ラッパ(喇叭)手」として国内の部隊に配属されますが、上手く吹けずに、自分で配置転換を申し出ます。
 あきれた上官に、「北がいいか、南がいいか。」と聞かれ、北は寒いので、九州あたりのつもりで「南」と答えます。

 ところが、赴任先は、敗色濃厚だった南方戦線の激戦地「ラバウル(現 パプア・ニューギニア)」でした。
 マイ・ペースの水木さんもこれには驚き後悔しますが、時すでに遅く、軍隊では上官に殴られ続け「ビンタの王様」と呼ばれました。

<写真 ラバウル>



 この戦争中に、水木さんはマラリアにかかり入院し、さらに敵機の爆撃を受けて左腕を負傷して切断手術を受けます。
 それでも、「玉砕」せずにジャングルでゲリラ戦を展開し、原住民のトライ族(水木さんは土人と呼んでいます)の助けも得て、「九死に一生」を得ます。

 そして、1946(昭和21)年、終戦の翌年に、24歳で日本へ帰国します。
 この時の戦争経験をもとに、後に「総員玉砕せよ!」などの戦争をテーマにした漫画を描いています。

 1946(昭和21)年、24歳で日本に帰国した水木さんは、神奈川県相模原市の「国立相模原病院(現在の国立病院機構相模原病院)」に入院して、応急処置の段階だった片腕の本格的な治療をします。

  しかし、右腕1本で生きていかなければならない状況は変わらず、最初は、病院直営の染物工場で絵付けの仕事をして入院中の生活費を稼いでいましたが足りず、他の患者と「闇米の買い出し」で生活費を稼ぐようになります。

 本格的に「闇屋家業」で一財産を得ようと東北へ食料の買い付けに行ったりもしますが、見事に失敗します。
 結局、自分には絵しかないと、1948(昭和23)年、26歳で「武蔵野美術学校」に入学しますが、結局は中退します。

 私生活では、「魚屋」や「輪タク(自転車タクシー)」などもやりますが、商売の方は、どれも上手くいきませんでした。

 人生の道が定まらない状況が続いていましたが、1950(昭和25)年、28歳の時に、兵庫県神戸市に旅行をした時に、安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらないか。」と購入を持ちかけられました。

 格安の値段であったので購入を決意し、「輪タク業」などの事業で貯めた資金と、父に借金して代金を調達して賃貸業をはじめます。
 このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から、「水木荘」と名付けます。

 この「水木荘」には、大家の水木さんと同じような「変わり者」ばかりが、「類は友を呼んで」入居しため、家賃収入は少なく、経営は苦しい状況でした。

 しかし、この「水木荘」は、水木の人生にとって転機となる「2つの重要なこと」をプレゼントしてくれました。
 その話は次回、させていただきます。

 ここまで、水木さんの少年時代から青春時代までを紹介しましたが、本当に辛いことの多い「悲惨な」半生ですね。
 まだ、将来の「大漫画の片鱗」も見えません。


<写真 「水木さんの幸福論」(水木しげる著 2007年角川文庫)>
 


 ここで、「悲惨な前半生」を過ごした水木しげるさんが、それを乗り切るために学んだ「幸福の7箇条」という「座右の銘」を紹介します。

第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第2条 しないではいられないことをし続けなさい。

第3条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第4条 好きの力を信じる。

第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第6条 怠け者になりなさい。

第7条 目には見えない世界を信じる。



 これは、2007(平成19)年に、水木さんが出した本、「水木サンの幸福論」(角川書店)の中の言葉です。

 この「幸福の7箇条」を紹介したのは、水木しげるさんの後半の人生は、まさにこの「幸福の7箇条」を実践したものだと、私には思えたからです。

 水木しげるさんの後半生の話は、次回に譲ります。

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