2015年12月12日土曜日

元定時制教師がノーベル賞受賞「大村智さん」(1)~人のために犬のために~

 ペットの犬とネコの平均寿命を知っていますか?

 日本獣医師会のデータでは、1980(昭和55)年には、犬の平均寿命2.6歳、ネコは3歳でした。ところが2009(平成21)年には、犬が15.1歳、猫が12.6歳と、30年間でネコは9歳以上、犬では、なんと12.5歳も延びています。

 特に犬の寿命が延びた大きな原因が、「イベルメクチン」というフィラリアの薬が開発されたことでした。
 犬の死因第1位だった「フィラリア」(犬糸状虫、 蚊が 媒介する寄生虫)の特効薬の開発に、大きな貢献があったのが、2015(平成27)年のノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授です。

 今回から2回に渡って、人間はもちろん、ペットたちの命も数多く救った「元定時制教師・大村智さん」を紹介したいと思います。

<チワワ犬>

 


 
 大村智(おおむら・さとし)さんは、1935(昭和10)年7月12日、山梨県神山村(現 韮崎市)生まれです。
 大村さんの家は農家で、5人兄弟の2番目(長男)で、家畜の世話をし、サッカーや野球の好きな活発な少年でした。

 大村さんの母親は小学校の先生をしていて忙しかったので、大村さんの世話をしてくれるのは、おばあちゃんでした。
 それで大村さんは「おばあちゃん子」として育ちます。

 子どもの頃、その大好きなおばあちゃんから「人のためになることを考えなさい。」と言われ続けました。
 10歳までは戦争中であったので、普通の大人は「お国のためになることをしなさい」(例えば兵隊になる)と言っていたのですが、大村さんのおばあちゃんは「人ためになることを考えなさい」という言葉を言い続けました。

 このおばあちゃんの言葉が、大村少年の心に深く残り、この後、人生の岐路に立った時の判断基準は、「人のためになるかどうか」になりました。

<山梨県韮崎市>



 1951(昭和26)年、地元の山梨県立韮崎高校へ進学しました。
 大村少年は、勉強よりスポーツが得意で、本当はサッカーがやりたかったそうです。
 韮崎高校は、全国大会で優勝経験もあるサッカーの名門校ですが、全国優勝を経験した親戚の子供が結核で早逝したことで、おばあちゃんから「サッカーは辞めなさい」と言われます。

 それで始めたのが、「スキー」と「卓球」で、どちらもキャプテンを務めます。特に「スキー」の距離競技では、県内トップクラスの実力で、国体選手にも選ばれています。
 スキーの距離競技は、過酷なスポーツですが、「倒れそうになってもがんばったスキー距離の経験が、苦しい時に私を支えてくれた」と、大村さんは語っています。

 高校を卒業すると、地元の「山梨大学学芸学部(現・教育人間科学部)」へ進学しました。
 私は数年前、山梨大学の「甲府キャンパス」へ行ったことがありますが、甲府駅から徒歩で15
分ほどの閑静な住宅地にある大学というイメージでした。

 大村さんが通っていた頃は、「学芸学部」と「工学部」だけでしたが、1978(昭和53)年に「医学部」が設置され、2012(平成24)年には「生命環境学部」が再編により設置されています。(今なら生命環境学部に入学されたような気がします。)

 大村さんは、大学での成績は目立ったものではありませんでしたが、山梨大学で導入されている「マイスター制度」(ゼミの指導教員以外に、勉強や学生生活に関する指導・援助を行う教員<マイスター>を学生が選んで決める制度)で、「4年間、面倒を見てくれる教員が付き、私は化学を選んだ。脂質化学を学び、いつでも実験をやれる環境があった。これは、その後の私の研究生活に活きました。」と、話しています。

<山梨大学>

 



 1958(昭和33)年、22歳の時に山梨大学学芸学部自然科学科を卒業すると、「東京都立墨田工業高等学校定時制(夜間)」の教師になります
 大村先生(ここから「先生」の敬称にします)が配属された定時制高校は、まわりの工場から仕事を終えて勉強したい人たちが集まる学校でした。

 ある時、期末試験で、大村先生が試験監督をしていると、1人の生徒が、手の周りに油をいっぱい付けて、遅れてきました。

 手を洗う時間も惜しんで勉強している生徒を見て、大村先生はショックを受け、「自分ももっと勉強しなきゃいかん。」という思いになって、本当の研究者になろうと決心しました。
 定時制高校の教師のまま、1960(昭和35)年、24歳の時に「東京理科大学大学院理学研究科」に進み、昼は大学院で勉強、夜は定時制高校の教師という生活を始めました。

 結局、大村先生は、5年間、定時制高校の高校教師を務め、1963(昭和38)年に「東京理科大学大学院理学研究科修士課程」を修了しました。
 同年、母校の山梨大学工学部発酵生産学科の助手となり、いよいよ「本当の研究者」の道を歩み始めます。

 その後の話は、次回に譲るとして、今回の最後は、2015年に大村智先生と梶田隆章先生が受賞した「ノーベル賞」という賞自体の「誕生エピソード」を紹介します。

<ノーベル賞メダルチョコ>



  ノーベル賞は、スウェーデンの発明家で企業家の「アルフレッド・ノーベル(1833年~1896年)」が、その遺言により創設した賞です。
  ノーベルはダイナマイトをはじめとする様々な「爆薬」の開発・生産によって、巨万の富を築きました。しかし爆薬や兵器をもとに富を築いたノーベルには、一部から批判の声が上がっていました。

 1888(明治21)年、アルフレッド・ノーベルの兄の「リュドビック・ノーベル」がフランスで死亡しました。
 この時、フランスのある新聞がアルフレッド・ノーベルが死亡したと間違えて、「死の商人、死す」という見出しで報道しました。
 この「悪意ある誤報」が、結果的にノーベル賞を生み出すことになります。

 自分の「死亡記事」を見たノーベルは、自分の死後、自分がどのように記憶されるかを考えるようになります。
 そして、遺産の大半を基金にし、その利子を「前年に人類のために最大の貢献をした人々」に分配するとの遺言を残し、1896(明治29)年12月10日に63歳で死亡しました。

 この遺言を受けて、「ノーベル賞」は、1901(明治34)年に創設されました。
 今年も、「ノーベル賞授賞式」が12月10日に行われましたが、これはノーベルの命日にあたります。

 因みに、2015年現在、日本人(元日本国籍を含む)のノーベル受賞者は24人で、物理学賞11人、化学賞7人、生理・医学賞3人(大村智先生を含む)、文学賞2人、平和賞1人で、経済学賞だけはまだ受賞者がいません。

 おしまいに、アルフレッド・ノーベルと、大村智先生の名言を一つずつ紹介して、第1回(前半)を終わります。


<ノーベルの言葉>
   この世の中で悪用されないものはない。科学技術の進歩はつねに危険と背中合わせだ。
 それを乗り越えてはじめて人類の未来に貢献できるのだ。
 
 私は平和的発案の促進の為、大きな基金を残すつもりだ。
 ただ、その結果については懐疑的だ。

 遺産を相続させることはできるが、幸福は相続できない。
 

<大村智先生の言葉>
 私の面倒を見てくれていた祖母が、いつも繰り返し言ったのは、「とにかく、人のためになることを考えなさい。」、これだけを繰り返し聞かされました。
 自分の人生が「別れ道」に来たときは、「どちらが世の中のためになるか、人のためになるか」それを指標にしてきました。

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