2015年12月31日木曜日

2016年「見せてやれ、底力。」~逆境を笑え、夢をあきらめないで~

 2015(平成27)年、最後のブログ更新です。
 2015年の「今年の漢字」は、このブログで本命予想した「安」に決まり、見事、的中しました。(エッヘン)

 ただし、「とにかく明るい安村」さんが、インタビューで語っていたように、2015年の安は、「安心・安全の安」ではなく、「不安の安」でした。


<2015年「今年の漢字」発表 京都・清水寺>




 最初に、まじめな「不安の話」をします。
 日本全体で、「2016年の不安」の種を考えるといくつもありますが、特に心配なことを、4つ紹介します。

 まず第1は、「平和への不安」です。
 安保法案成立で、「専守防衛」から「積極的平和主義」に方針転換した日本が、国際紛争(特に「米中対立」や「IS(イスラム国)テロ」など)に巻き込まれないか、とても「不安」です。

 2番目は、「福島原発への不安」です。
 2013(平成25)年9月、安倍首相が、アルゼンチンのブエノスアイレスで行った東京五輪誘致演説では、「福島原発はアンダーコトロールされているから安心してください。」と話されていました。
 一方で、2015(平成27)年10月の福島県での安倍首相の演説では、「福島原発の廃炉への取り組みは未知への挑戦である。」とも話しておられました。
 「アンダーコントロール」と「未知への挑戦」、本当はどちらなのでしょう?

 3番目は、「日本経済と社会の不安」です。
 アベノミクスも新アベノミクスも、最も重要なのは「強い経済」だと強調しています。その経済政策は、「トリクルダウン理論」という考え方に立っています。

 これは、「シャンパンタワー」が上から下へ順に流れて潤(うるお)っていくように、大企業や富裕層の支援政策を行うことが経済活動を活性化させることになり、富が低所得層に向かって徐々に流れ落ち、国民全体の利益となる。」という理論です。

 しかし、実際の日本では、「生活保護世帯の増加」や、「下流老人」、「子供の貧困」という言葉に象徴されているように、貧富の格差がどんどん広がっていて国民全体が潤っているようには見えません。本当に、これで「安心してください」と言えるのでしょうか。

 最後の4つ目は、「自然災害への不安」です。
 巨大台風、集中豪雨、豪雪をはじめ、活発化する火山活動、そして阪神大震災や東日本大震災などの地震・津波、どれも心配です。
 特に、「東南海地震・南海地震」が起こって70年、「東海地震」からは160年が過ぎていて、一定の周期で起こると言われている「南海トラフを震源とする巨大地震」のリスクは年々高くなっています。


<シャンパン・タワー 「トリクルダウン」?>

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 日本全体だけでなく、我が家でも「子供の不登校」や「親の病気・高齢化」など、多くの不安を抱えたまま2015年が終わってしまいます。
 新しい2016年に向かうというのに、暗い話ばかりです。「何だかなぁ。」ですね。


 でも、「安心してください。」
 ここからは、「とにかく明るく前向きな話」をしたいと思います。

 2015年秋に「見せてやれ、底力。」というテレビCMが放送され、バックには岡村孝子さん作詞・作曲の名曲「夢をあきらめないで」が流れました。

 これは、17歳の女優・平祐奈(たいらゆうな、1998年~ 兵庫県出身)さんが演じる女子高生の1年間の受験生活を、「黒板アート」のアニメーションで描いたもので、大塚製薬「カロリーメイト」のCMです。

 120秒間のCMは、34人の美大生たちが、のべ2623時間もの時間をかけ、計6328枚の黒板に描いたアニメーションで出来ています。
 受験経験者なら誰もが記憶にある、あの苦しくも懐かしい受験生活が、レロトな黒板アートで描かれていて、見ていてすごく懐かしい気分になります。

 ちなみに、平祐奈さんは、映画「案山子とラケット」やテレビドラマ「JKは雪女」などに主演し、CMでは他にも、任天堂、JR東日本、ソフトバンクなどに出演しています。女優の平愛梨さんは実姉です。

 もう一つ、このCMを盛り上げているのが、バックに流れる名曲「夢をあきらめないで」です。
 「♪あなたの夢をあきらめないで 熱く生きる 瞳が好きだわ♪」という歌詞を聞くと、じーんとなってしまいます。

 CMでこの曲を歌っているのは、2015年11月にメジャーデビューしたばかりの18歳のシンガーソングライターの「Anly(アンリィ、1997年、沖縄県伊江島出身)」さんで、彼女は母方の祖父がアメリカ人のクォーターです。
 ちなみに、彼女が中学卒業まで過ごした「沖縄県伊江島(伊江村)」には、インターネットのできる環境がなかったそうです。

 17歳と18歳の2人のハイティーンを起用し、美大生たちの「黒板アート」をアニメーション化した「CM」を見ていると、「見せてやれ 底力。」のタイトル通り、大人が見ても、もう一度、あの青春時代の自分の底力を信じて、努力したくなる勇気が湧いてきます。


<CM「見せてやれ、底力」の黒板アート>
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<CM「見せてやれ、底力。」のサイト>
https://www.otsuka.co.jp/adv/sp/cmt/

 
 もう一つ、年末年始の前向きな話として、ご紹介したいのは、「逆境を笑え」という本を出した川崎宗則選手(1981年~ 鹿児島県出身)の言葉です。
 アメリカのメジャーリーグとマイナーリーグを行ったり来たりしながらも、へこたれず、アメリカ人以上に前向きで、現地でも人気の野球選手、川崎宗則選手=ムネリンはこんなことを言っています。

 「逆境、いいじゃないか。笑っていこうぜ。笑っちゃえば、逆境なんて何もなくなる。
 そりゃ、おれにも笑えないと思うときだっていっぱいあるけど、そんなときは無理しての作り笑いが大事。逆境のとき、おれはみなさんに苦笑い、作り笑いをオススメします(笑)。
 
 本当に強い人は、自分の弱さ、他人の弱さを知ってる人。
 人間は弱いんだってことを知ってる人は優しいよ。だから、ポジティブになれる人は、ネガティブな自分を知っていて、受け容れてる人なんだと思う。」

 新しい年、2016(平成28)年は、日本にとっても、私にとっても決して明るい年には思えません。  
 でも、苦しくても逆境でも、自分の底力を信じ、「逆境を笑って」、自分史上で「最高の自分」、人生の「キャリア・ハイ」を目指して、前向きにポジティブにがんばって行こうと思っています。


<川崎宗則選手の本「逆境を笑え」>

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 2015年のお別れ、そして2016年の最初に、CM「見せてやれ、底力。」に出ていた部分の「夢をあきらめないで」の歌詞と、Anlyさんのメジャーデビュー曲「太陽に笑え」の歌詞の一部を紹介します。


♪「夢をあきらめないで」 (作詞・作曲 岡村孝子 1987年)♪

乾いた空に 続く坂道
後姿が 小さくなる
優しい言葉 探せないまま
冷えたその手を 振り続けた

いつかは 皆 旅立つ
それぞれの道を 歩いていく

あなたの夢を あきらめないで
熱く生きる 瞳が好きだわ
負けないように 悔やまぬように
あなたらしく 輝いてね


♪「太陽に笑え」 (作詞・作曲・歌 Anly  2015年)♪ 

(一部抜粋)
歩け 歩け 負け続けても
その続きはきっと誰もが 予想出来ない
泣いて 泣いて 喜べる日はまだ
うつむかないで 目線は上へ
太陽に笑え それが my life


<お礼>
  2015年1年間、このブログを見ていただき、本当にありがとうございました。
  2016年は、逆境でもポジティブに笑って、「夢をあきらめないで」がんばろうと思っています。
 どうかよろしく、お願いします。


<一句>
 平成の 賀状スマホで おめでとう!  

<一首>
 みかん食べ 百と八つの 思い出を 紅白歌い 今年も暮れる

   
 

2015年12月27日日曜日

不登校児への3つのプレゼント ~青い鳥と修造とドローン(orメロン)~

 クリスマスツリーも、パーティもしなかった「不登校児」のクリスマス。
  それでも、夢と勇気だけは忘れないでほしい。
 そんな気持ちを込めて、ポジティブな「3つのプレゼント」を探しました。

 最初に思いついたのは、「幸福の青い鳥」でした。
 ペットショップに行くと、1羽の青いセキセイインコが、鳥カゴに吊るした巣に足を取られて逆さまになっていました。
 セキセイインコは、もう1本の足で何度も巣を蹴って、はずそうとしていましたが、なかなかはずれません。

「かわいそうに。店員さんを呼んであげよう。」
 そう思った瞬間でした。
 青いセキセイインコは、もう一蹴りして、見事に、自分で巣から足をはずしました。

 自力で自分の窮地を救った青い鳥を見て、
「この努力と勇気が、我が家にほしいものだ。」
と感じて、この青い鳥を購入することにしました。

 我が家には、黄緑色のセキセイインコ「ピーちゃん」がこの夏からいます。
「自分で育てるから」と、子供が言って買ったのですが、他の生き物と同じで、1ヶ月もすれば、「いきものがかり」の私が世話をすることになりました。

 どうせなら、「幸福を呼ぶ」と言われている「青い鳥」を飼おうと買ってきて、同じカゴに入れて、2匹を私が世話することにしました。
 青い鳥の名前は「ハッーちゃん」です。
 そうです。2匹の名前を続けると、「ハッピー」になります。
 どうか、子供が勇気と努力を思い出してほしいとの願いを込めたプレゼントです。

<セキセインコの「ハッー」(左)と「ピー」>




 2つめのプレゼントは、「松岡修造グッズ」です。
 思い切りポジティブになってほしいので、「日記(パワーダイアリー)」と「日めくりカレンダー」を買いました。

 「日記」は、私がいじめられていた中学の時、日記に書いて自分の心を応援していたのを思い出して、買いました。
 1日1行でもいいから、書いてほしいと思っています。(思えば、ブログも日記ですよね。)

 カレンダーは、もちろん、松岡修造さんの熱い言葉が並んでいます。
 少し、紹介します。
・「チャンスをピンチにするな!」
・「太陽だって休むからこそ輝けるんだ」
・「モヤモヤ気分は心の洗濯機で選択しろ!」
・「信じることは 最高の応援」

 このカレンダーを、子供部屋にそっと貼って、毎日、めくってやろうと思っています。

<松岡修造さんの日記>




 最後の1つは、「ドローン」のつもりだったのですが、当面、「メロン」になりました。

 野外で大空を飛ぶ「カメラ付きドローン」を探したのですが、クリスマス前は12月23日の祝日も含めて、ずっと仕事だったので、夜遅くまでやっている「おもちゃ屋さん」しか行けませんでした。

 「おもちゃ屋」さんのドローンは、小さくて「写真機能」が付いていませんでした。
 そこで、ドローンは後日、子供が一緒に買いに行く気になったら買うことにして、今回は、語感が似ていて(?)、家族で食べられる「メロン」にしました。


 以上、3つのプレゼントを、そっと夜中に不登校の子供の枕元においておきました。
 「子どもが、ポジティブに元気になることを、私のクリスマスプレゼントとしてください。」
と、サンタクロースに願いをかけて眠りました。

 サンタさんが、願いを叶えてくれるといいのですが???


 有名なモーリス・メーテルリンク(1862年~1949年、ベルギー出身)の童話「青い鳥」には、こんな場面があります。

 クリスマス・イヴの夜、「幸福の青い鳥」を探しに旅立った、兄チルチルと妹ミチルの兄妹は、いろんな国を旅して青い鳥を探します。

 その中の一つ、「未来の国」では、これから生まれようとする子供たちがいて、自分が生きるテーマを用意し、運命を一つづつ背負って、自分の「誕生日」が来るのを待っています。
 そんな不思議な国から、帰ったチルチルとミチルは、自分の家の鳥が「青い鳥」だったことに気づきます。

 不登校児にも、親にも、子供が生まれながらにもっている「テーマと運命」、そして自分の家、自分の心に、本当の「幸福の青い鳥」がいることに、気づいてほしいと思います。
 いろんな悩みや問題を抱えていても、家族で、家にいられるだけで、本当は幸せなのだと思います。
 
<我が家の青い鳥>




 最後は、「わたしの青い鳥」という歌の一節を紹介します。

「♪わたしの青い鳥♪」

作詞:阿久 悠 
作曲:中村泰士

歌:桜田淳子(1973年)、モーニング娘(2008年にカバー)

♪ようこそここへ クック クック
わたしの青い鳥
 
恋をした心に とまります
 

そよ風吹いて クック クック
便りがとどけられ
誰よりも幸せ 感じます
 

どうぞ行かないで このままずっと
わたしのこの胸で 幸せ歌っていてね
クック クック クック クック
青い鳥♪



<一句>
・ ふるさとが 青い鳥だと 気づく暮れ

・ 一緒なら ただそれだけで 青い鳥
  
 

2015年12月23日水曜日

クリスマスの名作「賢者の贈り物」O・ヘンリー ~最高のプレゼントとは~

 「1ドル87セント、これだけ。もう、明日はクリスマスだ。」

 今回は、こんな言葉で始まる、クリスマスを題材にした名作短編小説、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」の話をしたいと思います。

 私は、クリスマスの季節になって、華やかなイルミネーションやクリスマスソングを街で聴くと、なぜか、この「賢者の贈り物」の話を思い出します。
 まず、あらすじの前半部分を紹介します。

 
「安アパートに住む貧乏だが仲のいい若者夫婦、ジムとデラ。
 この夫婦には、宝物として自慢できるものが2つありました。

 1つは、夫のジムが持っている「ピカピカの金時計」です。
 お父さん、お祖父さんの代から伝えられている「由緒正しきの宝物」です。

 もう1つは、奥さんのデラの「美しい長い髪」です。
 デラが、長い濡れ髪を窓から乾かしたら、向かいの建物に住むあの「シバの女王」の財宝も、台無しになるほど、美しい髪でした。

 このデラがクリスマス前に持っていた全財産が、「1ドル87セント」でした。
これでは、ジムに素敵なクリスマスプレゼントが買えないわ。」
 デラは溜め息をつきます。

 デラは、ジムの金時計にぴったりの「プラチナチェーン」を、クリスマスプレゼントに贈りたかったのですが、それは20ドルもします。
 手元にあるのは、何度数えても「1ドル87セント」です。
 デラは、立ち上がると、一つの決心をして外出します。」

<文庫本「賢者の贈り物」 0・ヘンリー著(新潮文庫)>



 このあとの物語は、後半へ続く。
 ということで、ここでおもしろい計算をしてみたいと思います。

 問題です。
 「『賢者の贈り物』が書かれた時代の1ドル87セントは、今の日本ではどれぐらいの金額に当たるでしょうか?。」
 
  2015年12月22日現在の1ドルは、約121円です。単純に計算すれば、226円になりますが、これではあまりに少なすぎます。

 「賢者の贈り物」は、1905(明治38)年に、O・ヘンリーがアメリカで書いています。当時の日本は、「日露戦争」の終わった年で、為替相場は1ドル=2円02銭ほどです。
 1ドル87セントは、3円77銭という計算になります。

  この頃(明治38~40年)の物価を、現在の日本の物価と比較すると、白米で2465倍、公務員の初任給で3610倍、金で957倍です。

 3つの真ん中で、物価の基準としても一般的な白米で計算すると、1905年アメリカの1ドル87セント=3円77銭×2465円≒9293円となります。

 「1ドル87セント」を、平成日本の小説風に言うと、
「9293円、これだけだった。1000円札が9枚、100円玉が2枚、あとの93円は1円玉だった。」
というような表現になりますかね。(笑)


 「賢者の贈り物」の作者O・ヘンリー(O. Henry)は、 本名「William Sydney Porter」で、1862(文久2=幕末)年に、アメリカのノースカロライナ州グリーンズボロで、医者の子供として生まれています。
 15歳で学校を離れ、薬剤師、銀行員、ジャーナリストなど、職業を転々とし、1898年、銀行時代の横領の罪で、有罪判決を受けています。
 1901年に釈放、1902年からニューヨークに住み、ここで多くの作品を発表しています。

 1904(明治37)年、42歳の時に処女作『キャベツと王様』が出版され、以後、1910(明治43)年に肝硬変で47歳で亡くなるまでに、381編の作品を残しています。

 「賢者の贈り物」のほか、「最後の一葉」、「二十年後」、「1ドルの価値」など、たくさんの名作短編小説を書いています。
 私は、O・ヘンリーのウイットに富んだ世界が大好きで、ほとんどの邦訳作品は読んでいます。
 今後、他の作品も、このブログで紹介できたらと、思っています。

<O・ヘンリー>





 だいぶ、道草をしてしまいましたが、そろそろ、「賢者の贈り物」のストーリー(後半)の紹介に、戻りたいと思います。


「 外に出たデラは、『かつら・ヘア小物』と書かれた店のドアを叩きます。
  デラは、自慢の長い髪をバッサリと切り、20ドルで売ってしまいました。
  そのお金で、デラは愛するジムへのプレゼント、金時計に着けるプラチナ・チェーンを買って、家でジムの帰りを待ちます。

 待つ時間が長くなると、デラは、長い髪を切った自分をジムが愛してくれるのか不安になって、髪を切ったことを後悔します。

 ジムは帰って来ると、髪を切ったデラを見て、がっかりします。その様子を見て、デラは泣きそうになります。
 ジムは、黙ってデラを抱きしめると、ポケットから『櫛のセット』を取り出し、デラにプレゼントします。
 なんと、ジムはデラの長い髪のために、自慢の金時計を売って、櫛を買ってきたのです。

 デラの買ったプラチナ・チェーンも、ジムの買った櫛も、使う相手を失くしてしまいました。
 それでも、二人は大笑いして、今まで以上に幸せなクリスマスを、過ごしました。」


 このすばらしい物語の最後に、O・ヘンリーは、こう付け加えます。
「 (キリストが生まれた日にやってきた)東方の三博士は、みごとなプレゼントを持ってきた賢者でした。いわば、クリスマスプレゼントの元祖です。
 この二人のプレゼントは、彼らに負けないほど、賢いプレゼントだったのです。」

 本当にすばらしい「クリスマス・プレゼント」は何か、この物語は教えてくれます。
  ちなみに、「賢者の贈り物」の原題は、「The gift of the Magi」で、「Magi」は、聖書の『マタイによる福音書』(2:1-13)に出てくる三博士(三賢者)のことを指します。

 イエス=キリストがお生まれになった時、星に導かれた東方の三賢者が、プレゼントを持って祝福に訪れたとの伝説があります。

 この時のプレゼントは、メルキオール( Melchior =王権の象徴、青年の姿の賢者)が黄金、バルタザール (Balthasar =神性の象徴、壮年の姿の賢者)は乳香、カスパール( Casper =将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者)が没薬だったと言われています。

  「乳香」は、カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される「樹脂」で、古代エジプトの時代から現代まで、香水やお香の材料として使われています。

  「没薬」も、カンラン科コンミフォラ属の樹木から分泌される「樹脂」で、ミルラとも呼ばれています。お香や線香として、エジブトや東洋で古代から使われ、防腐作用があるため、エジプトのミイラにも使用されています。ミイラの語源は、ミルラと言われています。

<クリスマス・キャンドル (100円ショップで購入)>



 クリスマスは、欧米では家族と過ごす、日本でいう「正月」のような家庭的な行事なのですが、日本では、恋人や友人と過ごす華やかな夜というイメージが定着してしまいました。
 この時期、鮮やかなイルミネーションが街を彩り、豪華なプレゼントがショーウインドウにあふれています。

 でも、本当にすばらしい贈り物、「賢者のプレゼント」とは何か、考えてみたいものです。
 ちなみに、クリスマスを12月24日のイヴの夜から祝うのは、ユダヤ教や教会暦では、日没で日付が変わる(つまり、12月25日になる)からだそうです。 

 私はクリスマスは、イヴも25日も仕事ですが、身内にいる不登校の小学生に、元気と勇気の出る「プレゼント」を考えて、贈りたいと思っています。

  最後は、小説「賢者の贈り物」という同名の、さだまさしさんの歌の歌詞の一部を紹介します。

「♪君に クリスマスに何を贈ろうかと
 今まで考え とても悩んでたんだ
 お金でも物でもない 何かをずっと探して
 淡紅(うすくれない)の君の頬が 僕に教えてくれた
 君のその笑顔 守ることが  一番大切な贈り物♪」

(歌・作詞・作曲 さだまさし 2007年)

 それでは、すてきなクリスマスをお過ごしください。
 メリークリスマス!


<1句>
 一人ゆく クリスマスの町 凍えそう

 讃美歌と ネオンがシンクロ イヴの夜

 

2015年12月19日土曜日

ノーベル賞受賞「大村智さん」(3)~金を残すのは下、中は、上は?~

    ノーベル医学・生理学賞受賞の大村智(おおむら・さとし)さんを紹介するブログの3回目(最終回)は、「ノーベル賞受賞記者会見」での大村先生の名言から紹介します。

「 私の仕事は微生物の力を借りているだけで、私自身がえらいものを考えたり難しいことをやったりしたわけじゃなくて、全て微生物がやっている仕事を勉強させていただきながら、今日まで来てるというふうに思います。
 そういう意味で、本当に私がこのような賞をいただいていいのかなという感じはします。」

 大村先生は、微生物の力を絶賛して、こう続けられています。

「 日本っていうのは微生物をうまく使いこなして今日まで来ている歴史がありますので、そういうのを大事にしております。
 食糧にしても、農業生産にしましても、われわれの先輩たちは本当によく微生物の性質をよく知って、それを人のために、世の中のためにという姿勢でずっと来ています。
 そういう伝統があると思うんですね。そういう中の一環、ほんの1点として私が存在するというふうに思っているんです。」

 お酒づくり、漬物、納豆など、確かに日本には「微生物の力」を活かした食材がたくさんありますね。そういう環境の延長戦上に、自分の研究があるという大村先生の認識は、欧米の研究を基礎としている学問とは、違うものも感じますね。

<大村智先生の伝記>



 大村智先生の略歴の紹介に戻ります。
 1975(昭和50)年、北里大学薬学部教授に就任した大村先生は、微生物の研究に
必要な資金を、アメリカ・メルク社と取り交わした「産学連携の契約」によって、捻出します。

 1990(平成2)年ごろから、北里研究所には毎年15億円前後のロイヤリティ収入が入るようになり、これまでに約250億円以上の収入をもたらしました。
 大村先生は、企業との癒着だとの批判を受けながらも、これらの資金を、研究助成や研究所運営、病院建設などに役立てます。

 大村先生は、財政が悪化していた北里研究所を再建するため、1984(昭和59)年に北里大学の教授を辞職し、北里研究所の理事として副所長に就任します。
 「経営学と不動産学」を学び、メルク社からのロイヤルティを活用して、北里研究所の再建に尽力しました。

 1989(平成元)年には、大村先生の提案により「北里研究所メディカルセンター」(病院)を設立し、1990(平成2)年には、北里研究所の所長に就任しました。

 北里研究所の再建に道筋を付けると、2008(平成20)年「学校法人北里学園」との統合を行い、法人の名称を「学校法人北里研究所」に変更しました。
 統合が完了すると、北里研究所の所長を退任しました。

 北里大学では、再び教鞭を執り、2001(平成13)年に大学院の研究部門である「北里生命科学研究所」教授に就任しました。
 また、北里大学大学院の「感染制御科学府」においても、2002(平成14)年から2007(平成17)年まで教授を務めました。

 これまでの功績により、2007(平成19)年には北里大学より「名誉教授」の称号が授与され、2013(平成25)年には、北里大学の「特別栄誉教授」となっています。(この名称が、現在使われれています。)

 研究部門では、40年以上に渡って微生物の研究を行い、450種類の新規化合物を発見し、2015(平成27)年、「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」により、ノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

 略歴で注目すべきは、大村先生は、医者ではなく薬剤師であることと、本来は教育学部系の山梨大学学芸学部卒業の教員であったことです。
 また、大村先生が他の研究者と違うのは、研究から資金を得、それを活用して、教育・医療・研究環境の充実などに活かす仕組みを作り上げたことだと思います。

 この点、幕末の志士でありながら、「亀山社中」(のち海援隊)という貿易商社を作って、経済活動をして得た資金で、倒幕への道筋(薩長連合)をつけた坂本龍馬に似ているような気がします。

<北里研究所メディカルセンター>



 大村智先生の家族の話をしますと、2000(平成12)年に奥さんの文子さんが病気で亡くなられています。
 大村先生は愛妻家で、ノーベル賞受賞の報を受けた時にも、「天国の文子が一番喜んでくれている。」と話し、文子さんの写真を授賞式会場まで持参されました。

 自ら理事長を務める「女子美術大学」に、文子さんの名を冠した「大村文子基金」を私費で作り、女子美生のフランス・パリやイタリア・ミラノへの「留学資金」や美術活動費(美術奨励賞)を支援しています。

 現在は、娘さんの育代さん(42歳)と2人暮らしで、スウェーデンでのノーベル賞授賞式にも、娘さんが同行していました。

 育代さんについて、大村先生はこう言っています。
 「『お父さんおめでとう』って、小さな声で 言ってくれました。
  そういう娘なんですよ。 遠慮がちなね。
  でも、いろんな準備を してくれまして、『寒いからこれを持っていきましょう』とか。
   本当に『ああ、娘がいてよかったな』と思うことが多かったです。」

 一方、育代さんは、お父さんの大村智先生について、こう語っています。
「こわそうに見えるかもしれないけど、よく話すし、とても気さくな性格です。」
 いい親子ですね。

 大村智先生は研究以外にも、「女子美術大学」(東京都杉並区)の理事長を務めたり、地元の山梨県韮崎市に、私費5億円を投じて「韮崎大村美術館」を建てて初代館長にも就任しています。

 また、「韮崎大村美術館の隣には、温泉施設「武田乃郷 白山温泉」も作り、オーナーを務めておられます。
 大村先生の言葉を借りれば、
「それほど儲かっているわけではないが、お客さんはそれなりに来て下さっているので、資金は回転している。
 掛け流しで、露天風呂からは八ヶ岳、茅ヶ岳が眺望できる。何より、お湯自体がすばらしい。」
とPRしておられます。
 その温泉も、美術館も、今回の大村先生のノーベル賞受賞で、入場者が飛躍的に増えているそうです。思わぬところに「ノーベル賞」効果ですね。


<武田乃郷 白山温泉(山梨県韮崎市)>




 最後に、大村智先生の名言をいくつか紹介したいと思います。

 大村先生は、学生や若手の研究者たちに、アドバイスされています。
 「こうしたいと思ったら、絶えず求め続けるべき。求め続けなければ授かることはできない。
神様は『プリペアードマインド』(心の準備ができている)を持っている人に、贈り物をくれます。」

 「分かれ道があったら、楽な方でなく、難しい道を選びなさい。苦労して失敗しても爽やか感が残る。」

「人との出会いを大事にしなさい。一期一会を大事にすれば、きっといいことがある」

 最後は、ノーベル賞の賞金を「若い人の育成資金」に寄付すると、笑顔でおっしゃたあとの大村智先生の名言です。
「人生の終わりにお金を残すのは下だ。仕事を残すのは中。人材を残すのが上だ。」

 ちなみに、「大村智研究室」からは、多くの研究者を育ち、31名の大学教授と120名の博士を輩出しているそうです。


<一句>

 「土に住む 宝探して 人救う」

 「微生物 世界を変える 力秘め」


  

2015年12月15日火曜日

ノーベル賞受賞「大村智さん」(2)~毎年2億人を感染症から救う ~

 今回は、 2015年の「ノーベル医学生理学賞」を受賞した、大村智(おおむら・さとし)北里大学特別栄誉教授 の「半生と名言」の2回目です。

   東京の墨田工業高校の定時制の教師を務めながら、大学院で勉強をしていた大村さんは、教え子から「コンちゃん」と呼ばれていました。
 当時、人気俳優・コメディアンで、「オロナミンC」のCMでも有名だった大村昆(おおむら こん)さんに、似ていたからだそうです。

 大村先生は「働きながら勉強する生徒」を尊敬し、生徒たちは「教えながら大学院で学ぶ先生」を尊敬していたそうです。いい話ですね。

 1963(昭和38)年に、「東京理科大学大学院理学研究科修士課程」を修了した大村先生は、母校の山梨大学工学部発酵生産学科の助手となり、いよいよ「本当の研究者」の道を歩み始めます。
 当時、大村智先生は28歳でした。

 プライベートでは、この年、文子さんと結婚されています
 高校教師の先輩に紹介されたのが馴れ初めで、文子さんの朗らかな性格に魅力を感じたそうです。
 大村先生の収入が少なかった頃は、文子さんが子どもたちにそろばんを教えたり、家庭教師をしたりして家計を支えました。

 そう言えば、大村先生は、ノーベル賞の授賞式に、亡くなった文子さんの写真を大切にもっていて、「一緒にスウェーデンに来たかった」と言っておっしゃっていましたね。
 「おしどり夫婦」だったようです。

 山梨大学では、山梨特産のワインやブランデーの醸造の研究などをし、大村先生は、ブトウ糖が一夜でアルコールに変換されるのを見て、「微生物の持つ可能性」に心を揺さぶられ、もっと微生物を研究したいと思うようになりました。

<北里研究所本館(愛知県 明治村)>


 
 「情報が多く集まり、設備が整った研究所で研究をしてみたい。」という思いに駆られ、1965(昭和40)年、30歳になった大村先生は山梨大学を退官し、「(社)北里研究所」(東京都港区)に、「技術補」として入所します。

 ここから、本格的に抗生物質の研究に取り組み、まず最初は「ロイコマイシン(キタマイシン)」という扁桃 (へんとう) 炎や肺炎などの 感染症の治療に用いる抗生物質の構造の解明に取り組みました。  

 1968(昭和43)年、「ロイコマイシンの研究論文」で、東大薬学部から薬学博士号を取得し、
北里大学薬学部の助教授になりました。
 1969(昭和44)年には、東京理科大学で理学博士号も取得します。

 1971(昭和46)年、カナダの国際学会で知り合った「アメリカ化学会会長のマックス・ティシュラー(1906年~1989年)氏」に留学を打診し、採用されると米国のウエスレーヤン大学に客員教授として招かれ、米国の先端研究に触れます。

 この時、アメリカの潤沢な研究資金が民間企業との提携で生まれていることを知りました。
 大村先生は、マックス・ティスラーが以前にいた「アメリカ・メルク社(ドイツに本社を置く、世界的な医薬・化学品企業)」を紹介してもらい人脈を築きました。
  アメリカでは、和食しかだめな大村さんに、奥さんの文子さんが、毎日、弁当を届けてくれました。

   1973(昭和48)年、「北里研究所の抗生物質研究室」の室長として帰国する時、メルク社との間で産学連携の契約を取り交わします。
 開発した薬剤が実用化された売上高に応じて特許料を北里研究所に支払う内容で、「産学連携」を取り入れた日本では画期的な契約でした。
 大村先生は、1975(昭和40)年に、北里大学教授に就任しています。

 この頃から大村先生は、いつも「財布にビニールの小袋」を持ち歩くようになりました。
 行く先々で「土」を採集し、その中から病気治療などに有益な菌を集めているそうです。
 毎年、大村先生のグループは、2000株とか3000株を培養にかけ、4000~6000の培養液についてチェックしているそうです。

 これまでに土壌から、13新属、42新種の微生物を発見し、微生物が作り出す化学物質を460種も見つけました。

<大村先生が財布に入れてもち歩くビニール袋>



  第1回のブログの冒頭で紹介した、「フィラリア」(蚊が媒介する寄生虫)を予防して、犬などの動物の平均寿命を大きく延ばす要因となった「イベルメクチン」も、このような地道な研究活動から生まれました。
 1979(昭和54)年頃に、静岡県伊東市川奈のゴルフ場近くで採取した土壌の中から、新種の放線菌「イベルメクチン」は発見されました。(ゴルフのラウンド中ではなかったそうです<笑>)

 大村先生は、発見した菌をメルク社に送り、共同で研究を進め、馬や牛、犬の体内・皮膚にいる寄生虫をほぼ百パーセント駆除する「物質(エバーメクチン)」を生産することを発見しました。
 この菌を「動物薬」にしたのが「イベルメクチン」で、一回投与するだけで完璧な効き目を発揮しました。
 「イベルメクチン」は、1981(昭和56)年の発売から現在まで、動物薬として世界中で発売され、飼い犬をはじめ、多くの動物たちの命を救いました。

 さらに、イベルメクチンのヒト用製剤として作られた「メクチザン」が、1987(昭和62)年よりメルク社と北里研究所から、世界中の熱帯地方に無償提供されています。

 この薬は、WHO(世界保健機構)によって重篤な熱帯病に指定されている「オンコセルカ症」(目が見えなくなる病気、河川盲目症)と、「リンパ系フィラリア症」に、年1回飲むだけで効くことから、メルク社と北里研究所の協力で無償提供され、毎年2億人以上を失明から救っています。

 中南米では、すでに「オンコセルカ症」がほとんど無くなっていて、アフリカでも大きな成果を上げています。
 大村先生のノーベル賞受賞理由の一つとして、「毎年、2億人以上を感染症から救っている」と言われている所以(ゆえん)です。

  大村先生の話は、2回で終わる予定でしたが、調べていると、まだまだ紹介したいことが出てきましたので、もう1回(第3回)、続きのブログを書きたいと思っています。

<オンコセルカ病の盲目の大人を子供が杖で誘導する像(北里科学研究所)>




 2回目の最後に、大村智先生の「ノーベル賞受賞記者会見」での言葉の一部を紹介します。


「 私は人まねしない。人のまねするとそこで終わりなんですよ。それより超えることは、絶対あり得ないんです。
  これはスキーから学んだことなんです。北海道から学んでいた新潟県の国体チームは、まねでは北海道に絶対勝てないことに気づき、勝つために独自の練習を始めたんです。科学も同じだと思うんですね。

 人のまねやってたら、それを超えることはできないんです。
 やはり独自なものをやる必要があります。
 失敗がいくら多くても、人を超えるにはやっぱし、まねしてちゃ超えられないんです。」

 (人と違うものを探し当てられない人に対してのメッセージ、アドバイスと聞かれて)
「努力。もうちょっと、もう一歩、もうひと頑張り!」


 なんか、勇気とやる気が出てくる「大村智先生の言葉」ですね。

2015年12月12日土曜日

元定時制教師がノーベル賞受賞「大村智さん」(1)~人のために犬のために~

 ペットの犬とネコの平均寿命を知っていますか?

 日本獣医師会のデータでは、1980(昭和55)年には、犬の平均寿命2.6歳、ネコは3歳でした。ところが2009(平成21)年には、犬が15.1歳、猫が12.6歳と、30年間でネコは9歳以上、犬では、なんと12.5歳も延びています。

 特に犬の寿命が延びた大きな原因が、「イベルメクチン」というフィラリアの薬が開発されたことでした。
 犬の死因第1位だった「フィラリア」(犬糸状虫、 蚊が 媒介する寄生虫)の特効薬の開発に、大きな貢献があったのが、2015(平成27)年のノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授です。

 今回から2回に渡って、人間はもちろん、ペットたちの命も数多く救った「元定時制教師・大村智さん」を紹介したいと思います。

<チワワ犬>

 


 
 大村智(おおむら・さとし)さんは、1935(昭和10)年7月12日、山梨県神山村(現 韮崎市)生まれです。
 大村さんの家は農家で、5人兄弟の2番目(長男)で、家畜の世話をし、サッカーや野球の好きな活発な少年でした。

 大村さんの母親は小学校の先生をしていて忙しかったので、大村さんの世話をしてくれるのは、おばあちゃんでした。
 それで大村さんは「おばあちゃん子」として育ちます。

 子どもの頃、その大好きなおばあちゃんから「人のためになることを考えなさい。」と言われ続けました。
 10歳までは戦争中であったので、普通の大人は「お国のためになることをしなさい」(例えば兵隊になる)と言っていたのですが、大村さんのおばあちゃんは「人ためになることを考えなさい」という言葉を言い続けました。

 このおばあちゃんの言葉が、大村少年の心に深く残り、この後、人生の岐路に立った時の判断基準は、「人のためになるかどうか」になりました。

<山梨県韮崎市>



 1951(昭和26)年、地元の山梨県立韮崎高校へ進学しました。
 大村少年は、勉強よりスポーツが得意で、本当はサッカーがやりたかったそうです。
 韮崎高校は、全国大会で優勝経験もあるサッカーの名門校ですが、全国優勝を経験した親戚の子供が結核で早逝したことで、おばあちゃんから「サッカーは辞めなさい」と言われます。

 それで始めたのが、「スキー」と「卓球」で、どちらもキャプテンを務めます。特に「スキー」の距離競技では、県内トップクラスの実力で、国体選手にも選ばれています。
 スキーの距離競技は、過酷なスポーツですが、「倒れそうになってもがんばったスキー距離の経験が、苦しい時に私を支えてくれた」と、大村さんは語っています。

 高校を卒業すると、地元の「山梨大学学芸学部(現・教育人間科学部)」へ進学しました。
 私は数年前、山梨大学の「甲府キャンパス」へ行ったことがありますが、甲府駅から徒歩で15
分ほどの閑静な住宅地にある大学というイメージでした。

 大村さんが通っていた頃は、「学芸学部」と「工学部」だけでしたが、1978(昭和53)年に「医学部」が設置され、2012(平成24)年には「生命環境学部」が再編により設置されています。(今なら生命環境学部に入学されたような気がします。)

 大村さんは、大学での成績は目立ったものではありませんでしたが、山梨大学で導入されている「マイスター制度」(ゼミの指導教員以外に、勉強や学生生活に関する指導・援助を行う教員<マイスター>を学生が選んで決める制度)で、「4年間、面倒を見てくれる教員が付き、私は化学を選んだ。脂質化学を学び、いつでも実験をやれる環境があった。これは、その後の私の研究生活に活きました。」と、話しています。

<山梨大学>

 



 1958(昭和33)年、22歳の時に山梨大学学芸学部自然科学科を卒業すると、「東京都立墨田工業高等学校定時制(夜間)」の教師になります
 大村先生(ここから「先生」の敬称にします)が配属された定時制高校は、まわりの工場から仕事を終えて勉強したい人たちが集まる学校でした。

 ある時、期末試験で、大村先生が試験監督をしていると、1人の生徒が、手の周りに油をいっぱい付けて、遅れてきました。

 手を洗う時間も惜しんで勉強している生徒を見て、大村先生はショックを受け、「自分ももっと勉強しなきゃいかん。」という思いになって、本当の研究者になろうと決心しました。
 定時制高校の教師のまま、1960(昭和35)年、24歳の時に「東京理科大学大学院理学研究科」に進み、昼は大学院で勉強、夜は定時制高校の教師という生活を始めました。

 結局、大村先生は、5年間、定時制高校の高校教師を務め、1963(昭和38)年に「東京理科大学大学院理学研究科修士課程」を修了しました。
 同年、母校の山梨大学工学部発酵生産学科の助手となり、いよいよ「本当の研究者」の道を歩み始めます。

 その後の話は、次回に譲るとして、今回の最後は、2015年に大村智先生と梶田隆章先生が受賞した「ノーベル賞」という賞自体の「誕生エピソード」を紹介します。

<ノーベル賞メダルチョコ>



  ノーベル賞は、スウェーデンの発明家で企業家の「アルフレッド・ノーベル(1833年~1896年)」が、その遺言により創設した賞です。
  ノーベルはダイナマイトをはじめとする様々な「爆薬」の開発・生産によって、巨万の富を築きました。しかし爆薬や兵器をもとに富を築いたノーベルには、一部から批判の声が上がっていました。

 1888(明治21)年、アルフレッド・ノーベルの兄の「リュドビック・ノーベル」がフランスで死亡しました。
 この時、フランスのある新聞がアルフレッド・ノーベルが死亡したと間違えて、「死の商人、死す」という見出しで報道しました。
 この「悪意ある誤報」が、結果的にノーベル賞を生み出すことになります。

 自分の「死亡記事」を見たノーベルは、自分の死後、自分がどのように記憶されるかを考えるようになります。
 そして、遺産の大半を基金にし、その利子を「前年に人類のために最大の貢献をした人々」に分配するとの遺言を残し、1896(明治29)年12月10日に63歳で死亡しました。

 この遺言を受けて、「ノーベル賞」は、1901(明治34)年に創設されました。
 今年も、「ノーベル賞授賞式」が12月10日に行われましたが、これはノーベルの命日にあたります。

 因みに、2015年現在、日本人(元日本国籍を含む)のノーベル受賞者は24人で、物理学賞11人、化学賞7人、生理・医学賞3人(大村智先生を含む)、文学賞2人、平和賞1人で、経済学賞だけはまだ受賞者がいません。

 おしまいに、アルフレッド・ノーベルと、大村智先生の名言を一つずつ紹介して、第1回(前半)を終わります。


<ノーベルの言葉>
   この世の中で悪用されないものはない。科学技術の進歩はつねに危険と背中合わせだ。
 それを乗り越えてはじめて人類の未来に貢献できるのだ。
 
 私は平和的発案の促進の為、大きな基金を残すつもりだ。
 ただ、その結果については懐疑的だ。

 遺産を相続させることはできるが、幸福は相続できない。
 

<大村智先生の言葉>
 私の面倒を見てくれていた祖母が、いつも繰り返し言ったのは、「とにかく、人のためになることを考えなさい。」、これだけを繰り返し聞かされました。
 自分の人生が「別れ道」に来たときは、「どちらが世の中のためになるか、人のためになるか」それを指標にしてきました。

2015年12月8日火曜日

追悼:ゲゲゲの漫画家「水木しげる」(2)~妖怪と好きの力を信じて片手で奮闘 ~

  「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家「水木しげる」さんの追悼ブログの2回目(後半)は、1950(昭和25)年、28歳の時に、神戸市兵庫区水木通にあった安宿を買って、アパート「水木荘」と名付け、経営を始めたところから再開します。

 この「水木荘」には、大家の水木しげるさんと同じ、変わり者ばかりが入居したため、家賃収入が少なく経営は苦しかったようです。

 しかし、人生、どこに幸運が落ちているのかわからないものです。
 この安アパート「水木荘」は、お金の代わりに、水木しげるの人生にとって大切な転機となる「2つのプレゼント」をしてくれました。

 1つは、この「水木荘」からとったペンネーム「水木しげる」こそが、彼の一生の宝物になったことです。(本当は、ここで初めて「水木しげる」が登場します。)

 そして、もう一つは、この「水木荘」に入居してきた紙芝居作家の弟子の青年の紹介で、水木は「紙芝居」の会社の社員になることができ、大好きな「絵」を家業にする第1歩を踏み出すことができたことです。

 1953(昭和28)年、31歳の時にアパート「水木荘」を売却し、兵庫県西宮市に移り、当時、繁盛して「紙芝居の専業作家」として、「絵」の制作に没頭します。
 この頃、「空手鬼太郎」や「河童の三平」などの作品が書かれています。

 1957(昭和32)年、水木しげるさんは上京し、やがて東京都調布市に住むようになります。
 翌1958(昭和33)年には、正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版します。35歳で、ついにプロの「貸本漫画家」となりました。

 「貸本漫画家」の収入は、「紙芝居作家」よりは遥かによかったのですが、水木しげるの遅筆と、「作風が暗い」という評価で、なかなか安定した生活はできませんでした。

 そんな中、1960(昭和35)年には、「墓場の鬼太郎(のちのゲゲゲの鬼太郎)」の誕生を描いた第1話『幽霊一家』と第2話『幽霊一家・墓場鬼太郎』を発表しています。

<写真 鬼太郎列車(JR境線 鳥取県米子駅~境港駅)>



 1961(昭和36)年には、水木しげる(本名・武良 茂)も39歳になり40歳を目前に、鳥取の両親から縁談を進められます。
 この時の見合いの相手が、のちに「ゲゲゲの女房」となる飯塚布枝(いいずか・ぬのえ)さんで、29歳でした。
 今なら、2人とも、全然、若いのですが、当時は、男40歳、女30歳は超晩婚でした。
 そんな2人は、見合いから5日後に、スピード結婚します。

 因(ちな)みに、水木しげるの生涯で、見合いから結婚までの5日間だけ、左手に義手をつけました。これは、母・琴江の厳命によるものですが、決して左手がないのを、水木が隠した訳ではありませんでした。
 むしろ、腕が1本でも堂々としていて、「ないものを、あるように見せるのは、俺はすかん。」と言って、目の前で義手をとった茂(水木しげる)さんに魅かれたと、後に布枝さんは語っています。

 水木さんの妻・布枝さんが原作者のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」には、こんなシーンがあります。

 貧乏が極まり、漫画家廃業を茂(水木しげる)が考えた時に布枝さんは……
 「お父ちゃんは強い人。腕が三本だから何とかなりますよ。」と励ましました。
 「腕が三本」とは、茂の手一本と布枝の手二本を合わせて三本というこです。

  それほど、2人は愛し合っていたのだと思います。

 1965(昭和40)年、『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』が、「第4回講談社児童漫画賞」を受賞して、43歳にして水木しげるは、人気作家の仲間入りを果たします。

 1966(昭和41)年には、「水木プロダクション」を設立し、同年「悪魔くん」がテレビアニメ化されます。
 そして、1968(昭和43)年、スポンサーの同意をとるため「墓場の鬼太郎」を改名した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化され、大人気になり、妖怪ブームを巻き起こします。

 以後、「ゲゲゲの鬼太郎」は、1971(昭和46)年、1985(昭和60)年、1996(平成8)年、そして2007(平成19)年と、5回もテレビアニメ化されています。
 また、2007(平成19)年と2008(平成20)年の2回に渡って、「ゲゲゲの鬼太郎」が映画化(いずれも松竹)されました。

 さらに、1991(平成3)年には、NHKで、水木しげるの少年時代を描いたテレビドラマ『のんのんばあとオレ』が放送され、2007(平成19)年には、ラバウルの戦争体験を元に書いた『総員玉砕せよ!』が、『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』のタイトルでNHKテレビでドラマ化されました。

 そして、2010(平成22)年には、妻の布枝さんが書いた夫婦の物語「ゲゲゲの女房」がテレビドラマ(NHK朝の連続テレビ小説、主演=松下奈緒、向井理)と、映画(主演=吹石一恵、宮藤官九郎)になり、特にテレビドラマは大ヒットしました。

 水木しげるさんの主な受賞歴としては、1996(平成8)年に「日本漫画家協会賞文部大臣賞」を受賞し、2010(平成22)年には「文化功労者」にも選ばれています。

 海外でも評価が高く、 2007(平成19)年には、フランスの「アングレーム国際漫画賞」の 最優秀コミック賞を日本人で初めて受賞し、2012(平成24)年には、漫画界のアカデミー賞と言われているアメリカの「アイズナー賞」も受賞しています。

<鬼太郎バス(東京都調布市)>

 


 最後は、水木しげるさんの名言を、「幸福の7箇条」にあてはめて紹介したいと思います。改めて水木しげるさんの「幸福の7箇条」を書いておきます。

第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第2条 しないではいられないことをし続けなさい。

第3条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第4条 好きの力を信じる。

第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第6条 怠け者になりなさい。

第7条 目には見えない世界を信じる。


(水木しげる著「水木サンの幸福論」(角川書店)より)


 それでは、水木しげるさんの名言を紹介します。
 

〇 「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある。」

  これは「玉砕命令」を受けても、空爆で片腕になっても、93歳まで一流の漫画家として、がんばってきた水木さんのプライドを語った言葉だと思います。
 幸福7箇条の「第3条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。」にあてはまりますね。


〇 「私が幸福だと思うのは、長生きして、勲章をもらって、エラクなったからではありません。好きな道で60年以上も奮闘して、ついに食いきったからです。ノーベル賞をもらうより、そのことの方が幸せと言えるでしょう。」

  この言葉は、水木さんの「幸福7箇条」の「第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。」と、第2条「しないでいられないことを、やり続けなさい。」に、通じるのだと思います。
 好きな道を、やりたいことを、必死でやることが幸せ。この言葉は、たくさんの職業を試して失敗し、ついには「好きな絵」を書くことを職業にした、水木さんの誇りと後進へのアドバイスだと思います。
 まさに「第4条 好きの力を信じる」ことを続けてきた、水木さんの幸福な経験を語っています。


 おしまいに、「幸福の7箇条」のうち、不思議な言葉が並ぶ「5条、6条、7条」の話をします。

〇 第5条の「才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。」は、苦労しても努力しても報われなかった水木さんの「悲惨な」前半生から得た教訓です。

〇 第6条「なまけ者になりなさい。」は、水木さんが色紙によく書いた言葉です。水木さんは、こんなことを言っています。
 「若いときは怠けては駄目です!でも、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきです。
 ときどき怠けることは、生きていくうえで大切なことです。そして、仕事でも役立つのです。」  

 睡眠時間を惜しみ、過労で死んでいった仲間を見て、水木さんが感じた教訓です。でも、水木さん本人は、93歳まで怠けずに漫画を描き続けました。

〇 そして最後の第7条は、「目に見えない世界を信じる。」です。
 水木さんの妖怪研究は本物で、1995(平成7)年に「世界妖怪協会」を、荒俣宏さん、京極夏彦さん、多田克己さんらと設立し、会長に就任しています。

 この「世界妖怪協会」は、「世界遺産」ならぬ「怪遺産」を認定しています。
(1) 2007年に、水木さんが育った「鳥取県境港市」を認定
(2) 2008年に、子泣き爺などの伝承が残る「徳島県三好市山城町」を認定
(3) 2010年には、「遠野物語」などで知られる「岩手県遠野市」を認定

 水木しげるさんは、「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎たち妖怪だった。」と語っています。
 少年のような純粋な心を持ち続け「目に見えない世界を信じた」水木しげるさんには、妖怪たちが見えていて、助けてくれたのでしょう。

<写真 水木しげるさんが生前建てた墓(東京都調布市)>




 2015(平成27)年11月30日、水木しげるさんは93歳で、東京都三鷹市の病院で多臓器不全のため永眠されました。

 水木しげるさんは、自宅のある東京都調布市の「覚證寺」に生前墓を作られていました。
 お墓の右前には、「鬼太郎と目玉おやじ」の像、左前には「ねずみ男」の像が飾られ、周りには無数の妖怪のレリーフが刻まれています。
 ネットでは、「毎晩、妖怪大運動会が開催されているのでは?」とも言われています。

 多くの妖怪たちに囲まれた墓で、水木しげるさんは、「やっと、目に見えない世界の住人になれたな」と、喜んでいるような気がします。

 水木しげるさんは亡くなられても、鬼太郎やねずみ男、目玉おやじ、猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、ぬりかべ、一反木綿などなど、水木さんが描いた妖怪たちは、漫画やアニメ、映画、そして全国各地にある銅像や私たちの心に、長く永く生き続けることだと思います。

 水木しげるさん、やっと両手で漫画が書けますね。
 ゆっくり、休んでください。合掌。


<一句>

 妖怪は 人と自然の 架け橋だ

 妖怪と 一緒に眠れる ゲゲゲのゲ

 
 

2015年12月6日日曜日

追悼 ゲゲゲの漫画家「水木しげる」(1)~悲惨な前半生と幸福の7箇条~

  「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家「水木しげる」さんが、2015(平成27)年11月30日、多臓器不全のため亡くなられました。93歳でした。

 このブログでは、「水木しげる」さんの生涯と名言を紹介したいと思います。
 今回はその前半で、「不合格、退学、くび、そして戦争、片腕喪失」という悲惨な言葉が並ぶ前半生と、それを乗り切るために生まれた「幸福の7箇条」を紹介します。

 水木しげるさんと言えば、向井理さんと松下奈緒さんが夫婦役を演じて高視聴率を記録した、2010(平成22)年放送のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を思い浮かべる方も多いと思います。

 私自身、「ゲゲゲの鬼太郎」と水木しげるさんの名前は知っていましたが、このドラマで初めて、水木さんが片腕であることを知りました。それだけ、水木さんは、片腕のハンディを感じさせない一流の漫画家だったということだと思います。

 実は、「ゲゲゲの女房」の原作は、水木しげるさんの奥さんの武良布枝(むら・ぬのえ)さんが、夫婦の半生を書いたものでした。

<写真「ゲゲゲの夫婦(水木しげる・布枝夫妻)の銅像」(鳥取県境港市)> 

 
 





 水木しげる、本名・武良茂(むら・しげる)さんは、1922(大正11)年3月8日、大阪府大阪市住吉区で生まれています。
 生まれて間もなく、父親・亮一さんの仕事の都合で、亮一さんの故郷である鳥取県境港市に引っ越し、そこで幼年期・少年期を過ごします。

 水木さんが幼い頃、鳥取の武良家には、「まかないつき」で手伝いに来ていた「景山ふさ」さんというおばあさんがいました。
 通称「のんのんばあ」と呼ばれたこのおばあさんが、しげる少年に、「妖怪」や「地獄」などの「もう一つの世界」の話をしてくれました。これが水木しげるさんの漫画の原点になっています。

 後に、水木しげるさん自身が、「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない。」と語っています。

   水木しげるさんは、3人兄弟の次男ですが、兄と弟が勉強がよくできて旧制中学へ進学したのに対し、水木さんは勉強が苦手で、ゆっくり朝食を取り、2時間目から学校へ行くほどのマイペースでした。
 1年遅れて入った尋常小学校でも、「体育」と「図画」以外の成績は悪く、旧制中学への進学は叶いませんでした。

 1937(昭和12)年、しげるさん13歳の時に、鳥取を離れて大阪の印刷会社に就職します。
 しかし、マイペースな性格で、会社は立て続けに2回も首になり、美術や園芸の学校の試験にも落ちます。

 結局、大坂の夜間中学で学ぶことになりますが、1943(昭和18)年、21歳の時に、「召集令状」が来て軍隊に入ります。

  軍隊では、「ラッパ(喇叭)手」として国内の部隊に配属されますが、上手く吹けずに、自分で配置転換を申し出ます。
 あきれた上官に、「北がいいか、南がいいか。」と聞かれ、北は寒いので、九州あたりのつもりで「南」と答えます。

 ところが、赴任先は、敗色濃厚だった南方戦線の激戦地「ラバウル(現 パプア・ニューギニア)」でした。
 マイ・ペースの水木さんもこれには驚き後悔しますが、時すでに遅く、軍隊では上官に殴られ続け「ビンタの王様」と呼ばれました。

<写真 ラバウル>



 この戦争中に、水木さんはマラリアにかかり入院し、さらに敵機の爆撃を受けて左腕を負傷して切断手術を受けます。
 それでも、「玉砕」せずにジャングルでゲリラ戦を展開し、原住民のトライ族(水木さんは土人と呼んでいます)の助けも得て、「九死に一生」を得ます。

 そして、1946(昭和21)年、終戦の翌年に、24歳で日本へ帰国します。
 この時の戦争経験をもとに、後に「総員玉砕せよ!」などの戦争をテーマにした漫画を描いています。

 1946(昭和21)年、24歳で日本に帰国した水木さんは、神奈川県相模原市の「国立相模原病院(現在の国立病院機構相模原病院)」に入院して、応急処置の段階だった片腕の本格的な治療をします。

  しかし、右腕1本で生きていかなければならない状況は変わらず、最初は、病院直営の染物工場で絵付けの仕事をして入院中の生活費を稼いでいましたが足りず、他の患者と「闇米の買い出し」で生活費を稼ぐようになります。

 本格的に「闇屋家業」で一財産を得ようと東北へ食料の買い付けに行ったりもしますが、見事に失敗します。
 結局、自分には絵しかないと、1948(昭和23)年、26歳で「武蔵野美術学校」に入学しますが、結局は中退します。

 私生活では、「魚屋」や「輪タク(自転車タクシー)」などもやりますが、商売の方は、どれも上手くいきませんでした。

 人生の道が定まらない状況が続いていましたが、1950(昭和25)年、28歳の時に、兵庫県神戸市に旅行をした時に、安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらないか。」と購入を持ちかけられました。

 格安の値段であったので購入を決意し、「輪タク業」などの事業で貯めた資金と、父に借金して代金を調達して賃貸業をはじめます。
 このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から、「水木荘」と名付けます。

 この「水木荘」には、大家の水木さんと同じような「変わり者」ばかりが、「類は友を呼んで」入居しため、家賃収入は少なく、経営は苦しい状況でした。

 しかし、この「水木荘」は、水木の人生にとって転機となる「2つの重要なこと」をプレゼントしてくれました。
 その話は次回、させていただきます。

 ここまで、水木さんの少年時代から青春時代までを紹介しましたが、本当に辛いことの多い「悲惨な」半生ですね。
 まだ、将来の「大漫画の片鱗」も見えません。


<写真 「水木さんの幸福論」(水木しげる著 2007年角川文庫)>
 


 ここで、「悲惨な前半生」を過ごした水木しげるさんが、それを乗り切るために学んだ「幸福の7箇条」という「座右の銘」を紹介します。

第1条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第2条 しないではいられないことをし続けなさい。

第3条 他人との比較ではなく、あくまで自分の楽しさを追求すべし。

第4条 好きの力を信じる。

第5条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第6条 怠け者になりなさい。

第7条 目には見えない世界を信じる。



 これは、2007(平成19)年に、水木さんが出した本、「水木サンの幸福論」(角川書店)の中の言葉です。

 この「幸福の7箇条」を紹介したのは、水木しげるさんの後半の人生は、まさにこの「幸福の7箇条」を実践したものだと、私には思えたからです。

 水木しげるさんの後半生の話は、次回に譲ります。

2015年12月2日水曜日

旅人・阿藤快さん永遠に旅立つ ~なんだかな、一日一生~

   「なんだかな」、
という決めゼリフで有名な自称「旅人」、他称「俳優、タレント」の阿藤快(あとう かい)さんが、2015年11月14日、あの世に旅立たれました。
 今回は、旅人・阿藤快さんの話をしたいと思います。


 阿藤快(旧芸名 阿藤海)さんは、本名「阿藤公一(あとうこういち)」さんで、終戦の翌年、1946(昭和21)年11月14日、神奈川県小田原市に生まれました。

  中学の時は野球に熱中し、入学した神奈川県立西湘高等学校に野球部がなかったことから2年の時に退学、野球名門高校に編入しようとしますが不合格になり、再び西湘高校に戻ります。
  高2で退学、しかも編入に失敗なんて、「なんだかな」ですね。

 大学は東京都立大学法学部に入学し、司法試験を目指しますが、2年生でドイツ語の単位を落として諦めます。ここでも、「なんだかな」ですね

<阿藤快さんの母校 東京都立大学 (現 首都大学東京>



 大学を卒業した阿藤さんは、1969(昭和44)年、23歳の時に、当時演出家としてはまだ無名に近かった蜷川幸雄監督の舞台『真情あふるる軽薄さ』に、機動隊員役として出演しました。
 きっかけは、「新聞広告で募集していてなんだか面白そうだったから」だそうです。

 その縁で、「俳優座」の舞台部に入り、裏方として大道具の仕事などをやって1年半が経ち、「そろそろやめ時かな」と思っていた時に、阿藤さんに転機が訪れます。
 原田芳雄さんと中村敦夫さんに誘われた、裏方から表舞台の俳優を目指すことになりました。

 阿藤さんは、1971(昭和46)年に、中村敦夫さん、市原悦子さん、原田芳雄さんらと共に、俳優座を退団しました。

 それから、1970年代から1980年代の終わり近くまで、20代から30代の阿藤さんは、人気テレビ番組に次々に出演します。

 「太陽にほえろ」(1973年~1987年、日本テレビ)をはじめ、「大江戸捜査網」(1975年~1979年、テレビ東京)、「水戸黄門」(1978年~2011年、TBS」、そして「西部警察」(1979年~1982年、テレビ朝日)と、錚々(そうそう)たる番組に出演しました。

 ただし、ほとんどが端役で、特に犯人役が多かったようです。
 「太陽にほえろ」では7回、「西部警察」では11回の出演のほぼ全てが犯人役ということで、当然、人気は出ませんでした。また「なんだかなー」ですね。

 プライベートでは、1973(昭和48)年、27歳で結婚し、男の子が生まれていますが、その後、離婚しています。
 家族のことは、公表されていませんので詳しくはわかりませんが、週刊誌などの情報では、2度結婚、2度離婚され、お孫さんもいるみたいです。

 1988(昭和63)年、『教師びんびん物語』(フジテレビ)に、主人公・徳川龍之介(田原俊彦)の上司の教頭・御前崎マキオ役で出演したのをきっかけに、阿藤さんの好演が受けて、一躍、人気俳優になりました。時に、阿藤さん、41歳でした。
 ちなみに、この時、ドラマを企画したスタッフの一人には、現在のフジテレビの亀山千広社長がいます。

 その後、次第に、重要なポストでドラマや映画に出演するようになり、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国」(2011年、NHK)などにも出演します。

 さらに、バラエティや旅番組にも多く出演し、中でも「ぶらり途中下車の旅」(日本テレビ)には、1994(平成6)年から2011(平成23)年まで、計61回も出演しています。「なんだかな」の決めセリフ?は、この番組の中で使い有名になりました。

 阿藤さんは、2001(平成13)年11月14日に、芸名を「阿藤海から阿藤快」へ改名しています。きっかけは、占星術の先生に、「名前の画数がよくない」と言われたことでした。
 ちなみに、「阿藤かい」という名前は、初恋の人が「あい」さんだったから、似ている芸名にしたとも言われていますが、真偽のほどは不明です。

 阿藤さんの気さくで飾らない人柄は、芸能界でも人気で、「芸能界一、いい人」(タモリ)とも言われています。
 また、競馬と旅が好きで、競馬の予想サイトを立ち上げ、自称「旅人」と称して活躍しました。

<神奈川県小田原市>



 阿藤さんは生まれ故郷、神奈川県小田原市を愛し、もとの芸名「阿藤海」さんの「海」の字は、相模湾のことだとも言われています。
 2010年には、「小田原ふるさと大使」に任命され、「小田原映画祭」や「小田原北條五代祭り」に毎年参加し、盛り上げました

  「小田原城動物園」の象のウメ子が、2009年に亡くなった時には、阿藤さんの公式ホームページに、こんなコメントを出しています。


 「 小学校の遠足はゾウのウメ子に会いに行き、また俳優になって何度もウメ子を取材しました。
  そのウメ子が9月に亡くなったそうです。
  残念の一言、人の生き死にも動物も思い出を残して消えていきます。

  だからで。。。。。みんなを楽しませてくれて ウメ子 ありがとう!!!!!」 阿藤 快

 人間にも動物にも、やさしい阿藤快さんでした。

 そして、2015(平成27)年11月14日、阿藤さんは、東京都新宿区の自宅で「大動脈破裂胸腔(きょうくう)内出血」という病気で亡くなりました。
 この日は、69歳の誕生日で、「阿藤快」さんに改名してからも、ちょうど14年になる日でした。

 阿藤快さんは、幕末の英雄「坂本龍馬」を敬愛していました。坂本龍馬は、11月15日が誕生日で、阿藤快さんとは1日違いです。
 しかも、龍馬は「誕生日と命日が同じ」11月15日ですが、阿藤快さんも誕生日と命日が同じで、11月14日になりました。
 これには、阿藤さんも大満足かも、知れませんね。

<阿藤快さんの遺影>




 阿藤さんの座右の銘は、「一日一生」でした。
 これは、「今日一日を自分の一生の最後の日だと思って、大切に精一杯、生きる」
というような意味だと思います。

 2015年、亡くなる直前まで、阿藤快さんは活躍されていました。
 TBSの人気ドラマ「下町ロケット」に出演されていましたし、11月20日、小田原市で行われた通夜では、阿藤さんの棺(ひつぎ)に、遺作となった舞台「MOTHER 特攻の母 鳥濱トメ物語」の台本などが入れられました。

 遺影には、小田原の英雄「北条早雲に扮(ふん)」した、甲冑(かっちゅう)姿で笑顔の阿藤快さんの写真が使われ、斎場には阿藤さんの友人の俳優・女優やファン、そして多くの小田原市民が駆けつけました。 

 「一日一生」をモットーに、69年ピッタリの人生を終わられた阿藤快さんの死は、残念の一言です。 でも、「人間も、思い出を残して消えていく」ものです。
 みんなを「やさしく」楽しませてくれて、阿藤快さん、ありがとう!!!


<一句>

 快さんが  天に旅立つ  何だかな