2015年11月22日日曜日

ニュースな街「フランス・パリ(1)」~不屈の歴史、たゆたえど沈まず~

 同時多発テロ事件で、世界中から注目されている街「フランス・パリ」、今回からは、知っているようで意外と知らない「パリの街」の話をしたいと思っています。
 
 1回目は、「パリのプロフィールと歴史」を紹介します。

 「観光の街」、「花の都」、「ファッションの都」、「芸術の都」などなど、いろいろな好イメージの形容詞がつけられ、日本人の憧れの街となっているパリですが、本当のところはどうなのでしょう?
 まず、パリの街のプロフィールを紹介します。

 「パリ( Paris、巴里)」は、フランスの首都で、市内を東から西に流れるセーヌ川の中洲とその両岸に開けた内陸都市です。
 人口は、パリ市が約225万人、周辺を含む都市圏で約1229万人です。(2011年の統計)
 
 位置は、北緯48度51分、東経2度21分で、北海道の最北端よりも北にあります。(日本の札幌は北緯43度で、フランス南部のマルセイユとほぼ同じ緯度です。)
 パリの標高は平均33mで、最高は「モンマルトルの丘」の131mです。

 パリ出身者・居住者は男性がパリジャン(: Parisienne)、女性がパリジェンヌ(仏: Parisienne)と呼ばれています。
 
<写真: パリの夜景>

 
 


 パリの歴史をひも解いてみましょう。

 セーヌ川の中洲「シテ島(パリ発症の地)」には、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあったと言われています。

 その後、ローマ帝国の支配を経て、508年(日本では飛鳥時代)には、メロヴィング朝フランク王国の首都となりました。しかし、まもなくフランク王国の中心はライン川流域に移ります。

 西暦987年(平安時代)に、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙され、パリはフランス王国の首都となりました。
 やがて、シテ島に王宮(シテ宮)が作られ、セーヌ川の右岸(北側)は中央市場などの商人の町、左岸(南側)はパリ大学を中心とした大学の町として発展していきます。

 13世紀(鎌倉時代)になると、ルイ9世(1214年~1270年)によって、「サント・シャペル(聖なる礼拝堂)」や「ノートルダム大聖堂」が建てられ、14世紀初めには、パリは人口20万人の大都市になります。

 その後、百年戦争(1337年~1451年)でパリの人口は10万人にまで減りますが、1594年(安土桃山時代)、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復します。
 続くルイ13世、ルイ14世の治世で、パリの人口は50万人にまで拡大します。

 そして1789年(江戸時代)7月14日、ルイ16世の時に「フランス革命」が起きます。
 この革命の多くの重要な出来事は、パリ市内で起こっています。

 国王ルイ16世とマリー・アントワネットが、「革命広場(現在のコンコルド広場)」でギロチンで処刑されたのをはじめ、ジャコバン派の独裁政権下等で多くの人々が処刑され、パリは混乱しました。

 1799年、政権の座についた 「ナポレオン1世(1769年~1821年」は、パリを「新しいローマ」とすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建てました。

 19世紀に入ると「第一帝政」(1804年~1815年)、復古王政期及び1848年の「二月革命」を経て、「第二共和政」、「第二帝政」、「第三共和政」へと、王政、帝政、共和政が混在して、政治的には安定しませんでした。

 しかし、「産業革命」により、パリは経済的、文化的には繁栄しました。
 文豪では、「レミゼラブル(ああ無情)」のヴィクトル・ユーゴーや、「赤と黒」のスタンダールなどが活躍し、画家では、マネやモネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどが活躍しました。

 鉄道もパリ市内に開通し、1837年の「パリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅」をはじめとして、「モンパルナス駅」、「パリ北駅」、「ストラスブール駅(パリ東駅)」などが次々と建設されていきました。

 1860年(幕末)に、パリ中心部から時計回りに20の行政区が整備され、「かたつむり(エスカルゴ)」の殻の形に似ているので「エスカルゴ」と呼ばれ、現在にいたっています。

<パリの行政区>



 19世紀末から20世紀初めにかけては、パリで数回の万国博覧会が開かれました。
 1889(明治22)年の万博では、エッフェル塔が建てられました。また、1900(明治33)年にはメトロ(地下鉄)も開業しました。
 この頃のパリは、「光の都」と呼ばれました。

 20世紀に入ると、パリは2つの世界大戦に巻き込まれます。
 第一次世界大戦(1914年~1918年)では、ドイツ軍がパリの目前まで迫りますが、陥落を免れます。

 しかし、第二次世界大戦(1939年~1945年)では、ナチス・ドイツのフランス侵攻により、1940年6月14日に、ドイツ軍がパリをほぼ無血で占領します。6月23日にはアドルフ・ヒトラーもパリに入ります。
 ドイツ占領下のパリでは「レジスタンス運動」が行われ、ナチス政権に市民が抵抗します。この抵抗運動を描いたのが、映画「パリは燃えているか」(1966年 アメリカ・フランス合作)です。

 1944(昭和19)年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放されます。
 このとき、ドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していた「ディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍」は、ヒトラーからパリを破壊するように命令されますが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏しました。
 この英断により、後に、コルティッツは、フランスから名誉パリ市民号を贈られます。
 
 大戦後は、高速道路網や、「RER」(地域圏急行鉄道網)と呼ばれる郊外と市中心部を直結する鉄道などが建設されます

 20世紀のパリでは、「異邦人」を書いたカミュ(小説家・哲学者)や、サルトル(哲学者)、キューリー夫人(化学者・物理学者)をはじめ、数え切れないほどの文化人・科学者が活躍し、今もパリは「芸術の都」、「世界一の文化都市」と呼ばれています。

 そして今年、2015年、パリは2つの「同時多発テロ」で襲われました。
 まず、1月7日にはパリ11区の風刺週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社などで、テロがあり、併せて12人が死亡、11人が負傷しました。

 そして、11月13日の金曜日に、パリ10区と11区の劇場や飲食店、郊外のサン=ドニにあるスタジアム「スタッド・ド・フランス」などで、銃撃戦と爆発が同時多発的に発生し、少なくとも130人の市民などが犠牲(他に犯人8人も死亡)になり、300人以上が負傷しました。

  因みに、現在のパリ市長は、アンヌ・イダルゴ(1959年生まれ、スペイン出身、在2014年~)さんで、初めての女性パリ市長です。


<パリに哀悼の意を表し、フランス三色旗カラーに点灯された東京スカイツリー>



 おしまいに、パリ市民の標語(スローガン?)の話をします。

 パリ市民の標語は、ラテン語で “Fluctuat nec mergitur (フランス語 Il tangue mais ne coule pas)”、という言葉です。

 日本語では、「たゆたえど沈まず」(エールフランスのガイドブックなどに記載)と訳されていますが、「たゆたえ」が難しくて、よくわかりませんね。

 そこで、「たゆたえ」を国語辞典で引いてみると、「1(船などが)ゆらゆらと揺れ動いて定まらない。 2 気持ちが定まらずためらう。心を決めかねる。」と出てきます。

 パリ市民の標語は、元は「セーヌ川水運組合の紋章」からだそうですので、少し日本語意訳すると、「心は揺れ動いても、決して絶望はしない(セーヌ川に沈まない)!」というような意味だと思います。

 パリの歴史を振り返ると、「百年戦争」、「フランス革命」、「ナチス・ドイツの占領」など、パリの街とパリジャン・パリジェンヌたちは、多くの苦難に苦しみ動揺し、それでも不屈の精神で困難に立ち向かい、そこから立ち直ってきたのです。

 それが、「たゆたえど沈まず(セーヌの流れに揺れ動いても沈まない)」ということだと思います。

 今回の同時多発テロのあと、1週間後のパリは、冷たい雨に濡れていて、「パリは泣いている」と伝えられています。
 それでも、パリ市民の標語(スローガン)の精神で、セーヌに沈まずにがんばってほしいと願います。

 次回は、「パリの観光とパリの今」を紹介したいと思っています。


<一句>

 鎮魂の パリは揺れても セーヌ悠々

 東京の  タワーもツリーも  三色旗


<写真 セーヌ川>
   
 

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