2015年11月14日土曜日

坂本龍馬生誕180年・竜馬の夢(1)~日本を洗濯する~ 

 「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事にいたすべくとの神願にて候。」 これは、幕末の志士、坂本龍馬が文久3(1863)年6月に、高知にいる姉の乙女に書いた手紙の一節で、
 「日本を今一度、洗濯する」という言葉は、龍馬の名言として有名です。

 実は、11月15日は坂本龍馬の誕生日で、今年(2015年)でちょうど180年になります。
 そこで、生誕180年を記念して、魅力いっぱいの「幕末の英雄・坂本龍馬」について、2回に渡って紹介してみたいと思います。
 1回目は、「龍馬の生い立ち」と「青春時代」です。


 坂本龍馬のファンは、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さんが演じるのを見て好きになった方と、司馬遼太郎さんの小説「竜馬がゆく」を読んで好きになった方とに、大別できるのではないかと思います。(注:りょうまの漢字は、本人は「龍馬」と書いています。「竜馬」は後世の略字ですが、司馬遼太郎さんはこの字を好んで使っています。)

 私は学生の頃、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んで、龍馬ファンになりました。
 あの時、寝食も惜しんで「竜馬がゆく」の文庫本8冊を、夢中で読破したのをとてもよく覚えています。

 龍馬の魅力は、いわゆる「神童」ではなく、寝小便をするいじめられっ子だった龍馬少年が、高学歴も高い身分も持たずに、「日本を洗濯する」ほどの英雄になった点だと思います。


 まず、「竜馬がゆく」から、名言をいくつか紹介します。

・「世に生を得るは事を成すにあり。」(第5巻)
・「どんなくだらぬ事でも死ねるという自信があってこそ、大事を成し遂げられるというものだ。
  業なかばで倒れても良い。その時は目標の方向に向かい、その姿勢で倒れよ。」
 (第6巻)

・「『・・・しかない』というものは世の中にはない。
 人よりも一尺高いところから物事を見れば、道は常に幾通りもある。」(第8巻)


・「人の一生というのは、たかだか五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発しては いけない。
 たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。
 生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない。」
(第8巻)


  少し読んでいるだけでも、わくわくして来ませんが?
  これが、「竜馬がゆく」の魅力です。
  もちろん、この小説の中の言葉は、すべてが龍馬の言った言葉ではありません。龍馬の手紙をはじめ、幕末の志士たちの愛読書(「英将秘訣」など)や司馬遼太郎さんの心の言葉などが、ミックスされたものです。

 今回だけでは、「竜馬がゆく」の魅力を紹介しきれませんが、久しぶりに私ももう一度「竜馬がゆく」を読みたくなったので、いずれ、このブログの中で、「竜馬がゆく」の名言を何度かに分けて紹介したいと思っています。

<写真「龍馬の生まれた町記念館」(高知県高知市上町)>

 



 さて、坂本龍馬という歴史上の人物の話に戻ります。

 坂本龍馬(さかもとりょうま)は、天保6(1835)年11月15日に土佐の国(現在の高知県高知市)の身分の低い侍「郷士(ごうし)」の家の次男として生まれます。(兄1人、姉3人)
 坂本家は侍の身分は低くても、本家は豪商で、龍馬の坂本家も経済的には裕福でした。

 坂本龍馬の正式な名前は、「坂本龍馬直陰(なおかげ)」で、のちに「坂本龍馬直柔(なおなり)」と改名します。
 因みに、「陰」を「柔」に変えたのは、龍馬の好きだった「孟子」の「柔よく剛を制す」からではないのかと、私は思っています。

 龍馬は子供の頃、勉強が嫌いで私塾を退学になります。
 龍馬が11歳の時に、母「幸」が病死します。
 その後、一念発起して高知の剣術道場(日根野道場)へ入り、剣の道で頭角を現します。

 嘉永6(1853)年4月、龍馬18歳の時に江戸へ上り、北辰一刀流の「千葉定吉道場」へ入門し、めきめき剣術の腕を上げます。
 この千葉定吉の娘さな子は、龍馬に恋をして一生独身を通し、ついには墓石に「坂本龍馬の妻」と刻ませます。

 この江戸遊学で、長州・薩摩・水戸など全国の志士と交流したことと、この年の6月にペリーの黒船来航を江戸で体験したことが、龍馬の人生に大きな意味をもつことになります。

 安政元(1854)年、19歳の龍馬は一旦、土佐へ帰ります。この時に、アメリカへ漂流し帰国した「ジョン万次郎」に、直接話を聞いた経験をもつ画家・河田小龍から、外国の様子や海運の重要性を聞きます。

 安政2(1855)年、龍馬20歳の時に、父の八平が亡くなり兄の権平が坂本家を継承します。この後、龍馬は再び江戸へ剣術修行に出ます。

 2度目の江戸遊学で、再び「千葉道場」に入り、「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられ、塾頭も努めます。「長刀(なぎなた)」だけでなく、剣術の腕も確かだったようです。
 ここでも他藩の多くの志士たちと交流します。

 安政5(1858)年、23歳で高知に戻った龍馬は、北辰一刀流免許皆伝の剣術の使い手として、土佐の若者たちに一目置かれる存在となります。
 この頃、江戸では「安政の大獄」が起こり、幕府の開国政策に異議を唱えた長州の吉田松陰らが処刑されます。

 文久元(1861)年、龍馬の親友で親戚筋にあたる武市半平太が「土佐勤王党」を結成し、龍馬もメンバーになります。
 しかし、「土佐一藩の勤王」と、山内家の家臣である上士と土着(長曾我部系)の侍・郷士の対立などに、大海(江戸)を見てきた龍馬は失望し、高知での限界を感じます。
 
 後に書いた手紙(文久3(1863)年8月19日)の中で、龍馬は脱藩理由をこう言っています。
「土佐一国だけで学問をすれば、一国だけの論になる。(日本中を)行き来すれば、それなりの目が開かれる。天から与えられた才能を開かないかん。」

 そして、文久2(1862)年3月、27歳の坂本龍馬は土佐藩を脱藩します。
 江戸時代の「脱藩」は、現代で言う「国外逃亡」にあたり、死罪になることがある大罪です。
 そのリスクを超えた時に、初めて自由な考えをもつ、私たちが知っている「志士で浪人のフリーな坂本龍馬」が誕生するのです。

<写真 坂本龍馬の銅像と太平洋(高知県高知市桂浜)>




 この年の暮れ、龍馬は江戸で、アメリカ帰りで幕府軍艦奉行並の勝海舟に出会い、生涯の師と仰ぎます。
 翌文久3(1863)年には、勝海舟の「神戸海軍塾」に入塾し、操船技術と多くの仲間を得ます。

 この頃、姉・乙女に書いたのが、冒頭の「日本をせんたくする」という手紙です。
 この手紙では、単独で攘夷を実行した長州藩(山口県)が砲撃した外国船を、幕府が江戸で修復していることへの怒りをのべたあとに、このような幕府の姦吏を倒し「日本を今一度せんたくする」と言っています。

 同じ手紙の中で龍馬はこうも言っています。
 「どうせ浮世は三文五厘よ。ぶんと屁のなるほどやってみよ。」

 このあと、いよいよ龍馬は「歴史上の人物」となる偉業を成し遂げていきます。
 その話は、2回目(後半)にしたいと思います。



<坂本龍馬の和歌>

 浮き事を 独り明しの旅枕 磯打つ波も哀れとぞ聞く 


<龍馬の名言(龍馬の手紙より)>

  何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり。

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