2015年11月16日月曜日

坂本龍馬生誕180年・竜馬の夢(2)~世界の海援隊~

 今年(2015年)11月15日で、生誕180年になった「坂本龍馬」を紹介する話、今回はその2回目(後半)です。

 文久3(1863)年、28歳目前の龍馬は、勝海舟の「神戸海軍塾」塾頭になり、「エヘン顔をして」(龍馬の手紙より)得意になります。

 この年の龍馬の手紙の一部を、紹介します。

「そもそも人間の一世は、合点の行かぬは元よりのこと、運の悪い者は、風呂より出でんとして金玉を詰め割て死ぬる者もあり。
 それと比べて、私などは運が強く、死ぬる場でも死なれず(中略)、今にては日本第一の人物、勝麟太郎(海舟)という人の弟子になり(中略)、国のため天下のため力を尽くしおり申し候。」
(文久3(1863)年3月20日 坂本乙女(姉)あて龍馬書簡より)


 ところが、龍馬が有頂天になっていたこの年、政治情勢が大きく変わります。
 まず、龍馬が脱藩した土佐藩では、山内容堂が武市半平太から藩の実権を取り戻し、土佐勤王党の弾圧が始まります。そして9月には、武市半平太も投獄されます。

 京都では「8月18日の政変」が起き、薩摩藩と会津藩が手を組み、長州藩を中心とした倒幕勢力を京都から一掃します。

 さらに、翌元治元(1864)年6月5日には、京都で「池田屋事件」が起こり、長州藩などの尊王攘夷派の志士が新選組に惨殺されます。
 続いて7月19日には、「蛤御門(禁門)の変」が起き、長州軍が京都御所周辺の戦闘で、会津・薩摩などの幕府勢力に惨敗します。
 そして11月には、「第1次長州征伐」で長州が幕府に降伏し、倒幕勢力の灯は、一人の男を除いてほぼ消えてしまいます。

 この情勢は、龍馬の周辺にも大きな変化をもたらします。
 「池田屋事件」や「蛤御門の変」に、神戸海軍塾の塾生が関係した責任をとらされ、勝海舟は11月に軍艦奉行を罷免されます。
 神戸海軍操練所の廃止も決定的となります。勝海舟は罷免される直前、龍馬らの塾生を薩摩藩に庇護してもらいます。

 この年、龍馬の人生にとって、もう一つ大きな出来事が起きています。
 5月に生涯の伴侶となる「楢崎龍(お龍)」と出会い、8月には内祝言を京都で挙げています。現在の満年齢で言えば、龍馬28歳の結婚です。

<坂本龍馬の写真>




 しかし、元治元(1864)年は、このままでは終わりませんでした。
 歳も押し迫った12月15日に、長州の功山寺(山口県下関市)で、最後に残った尊王倒幕派の星である高杉晋作が、80名余りの尊王派志士と挙兵します。

 最初は僅かな兵の挙兵でしたが、民衆や奇兵隊などの支持を得て、長州の反論を佐幕から倒幕へ転換することに成功します。やがてこれが、倒幕への流れを作ることになります。

 明けて慶応元(1865)年、龍馬は江戸、京都、大坂(大阪)、下関などを奔走し、5月には長崎で日本最初の商社と言われている「亀山社中(のちの海援隊)」を、薩摩藩の出資のもとに立ち上げます。

 龍馬らは、犬猿の仲だった「長州」と「薩摩」を同盟させ、倒幕の一大勢力作りを画策します。
 薩摩から長州へは「武器弾薬」を、長州から薩摩へは「兵糧米」をと、それぞれ喉から手が出るほど欲しかった物資の取引を、「亀山社中」の仲介します。

 そして、慶応2(1866)年1月22日、京都の薩摩藩邸で、龍馬の仲介により、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間で「薩長同盟」が締結されます。(この歴史的文書には、一介の浪人である坂本龍馬の朱書きの裏書があります。)

 この翌日、1月23日の夜、京都・伏見の寺田屋で宿泊していた龍馬を、幕府の官吏が襲撃します。龍馬は指を切られますが、裸で急を知らせたお龍の機転と、高杉晋作に贈ってもらった「6連発拳銃」のおかげで、九死に一生を得て脱出、薩摩藩邸に庇護されます。

 このあと、西郷隆盛の勧めで、龍馬とお龍は、当時よそ者を拒否していた薩摩(鹿児島)を旅し、霧島温泉や霧島山登山などを訪問します。これが、「日本最初の新婚旅行」と言われています。

 この後の龍馬の活躍は目覚ましく、慶応2年6月には、「第2次長州征伐」に出兵した小倉の幕府軍に対抗する高杉晋作率いる長州軍に、亀山社中の蒸気船で加勢して、見事に幕府軍を打ち破ります。
 坂本龍馬と高杉晋作が、一緒に戦うという場面は、まさに「幕末の2大風雲児の夢の競演」だと思います。

 慶応2年12月、龍馬は姉乙女に、この年の出来事を手紙にして送っています。
 「1月の寺田屋での幕吏との死闘」や「鹿児島への新婚旅行」など、詳細な絵入りの手紙を書いていて、なかなか読みごたえがあります。
 その中から、龍馬の言葉を紹介します。

 「世の中のことは月と雲、実にどうなるものやら知らず、おかしきものなり。
  家におりて、『味噌よ薪よ、年の暮れは米受け取りよ』などよりは、
  天下の世話は実に大雑把なるものにて、命さえ捨てればおもしろき事なり。」
(慶応2(1866)年12月4日 坂本乙女(姉)あて龍馬書簡より)

<龍馬が姉・乙女に送った手紙の霧島山の挿絵 (京都国立博物館蔵・重要文化財)>



 明けて慶応3(1867)年は、坂本龍馬の人生で最後の年になります。

 まず1月には、龍馬は「土佐藩」高官の後藤象二郎と長崎「清風亭」で会談します。
 この会談で、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろには、亀山社中は「海援隊(かいえんたい)」と改称します。
この海援隊は、約50人の隊員で結成しました。

 因(ちな)みに、武田鉄矢を中心として「母に捧げるバラード」や「贈る言葉」などのヒット曲を生んだフォークソングのグループ「海援隊」は、龍馬のこの組織から名前をとっています。

 4月には、伊予・大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海の備後国鞆の浦(広島県)沖で、紀州藩船「明光丸」と衝突し沈没してしまいます。
 この事故の談判で、龍馬は「万国公法」(国際法)を盾に一歩も譲らず、御三家の一つ紀州藩に対して、賠償金8万両以上の支払に同意させました。

 龍馬が、他の薩摩や長州の志士と違うのは、藩の利益を代弁せず「日本」という単位でものを考えていたことです。その結果、この頃の龍馬は、必ずしも「倒幕」ではなくなっていました。

 この年の6月に、龍馬が起草させた「船中八策」には、大政奉還や憲法制定、議会の設置、陸海軍創設、通貨政策など、明治政府の礎ともなる事項が入っています。

 中でも龍馬は、国内戦争を避け、平和理に「幕府から朝廷へ政権移譲」する大政奉還の実現に力を尽くします。
 土佐藩の後藤象二郎らと組み、慶応3年10月に、ついに「大政奉還」を実現します。(実際には同時に、「倒幕の密勅」が裏で出されたため、戊申戦争になってしまいます。)


 このブログの始めに、11月15日は龍馬の誕生日と紹介しましたが、実はこの日は龍馬の命日でもあります。

 慶応3(1867)年11月15日、数え33歳(満32歳)の誕生日に、坂本龍馬は、京都・河原町の近江屋で、同じ土佐出身の陸援隊隊長・中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。
 時刻は午後9時過ぎ、十津川郷士を名乗る数人に、頭などを切られ絶命します。(この時も、龍馬は懐に拳銃をもっていましたが、急襲で火を噴く間もありませんでした。)
 
 暗殺の犯人には諸説がありますが、幕府の見廻組だという説が有力です。
 「暗殺など、交通事故と同じだ。」という、司馬遼太郎さんの言葉に賛成し、ここでは暗殺犯人の話は、あまりしないことにします。

 幕末という日本の国難の時代に、天が「坂本龍馬」という英雄を地上に遣わし、事態収拾のメドが立った時に、役目を終えた龍馬を天が呼び戻した。
 そう信じたいですね。

<「薩長同盟」の文書と龍馬の朱色の裏書 (宮内庁所蔵)>


 
 
龍馬の物語の最後は、「龍馬の夢見た世界の海援隊」の話をします。

 このブログの中でも、龍馬の手紙をいくつか紹介しましたが、「龍馬の手紙」は最近の発見も含めると140通以上が残されています。

 私が学生の頃、ある博物館で「龍馬の手紙を見たい」とお願いすると、館員の方が展示ケースから取り出してくれて、「自分でコピーしていいよ。」と言って渡してくれました。
 龍馬の手紙を持たせてくれたのはとても嬉しかったのですが、「龍馬の貴重な手紙が、こんな扱いでいいのかな。」との疑問もあり、複雑な気持ちでした。

 平成12(2000)年、京都国立博物館所蔵の龍馬の手紙や遺品などが、国の「重要文化財」に指定されました。
 今、私の中では、もう龍馬の手紙に触れることもできないという寂しさと、「これほどの価値があるのだ」という誇らしさが交差しています。

 その「龍馬の手紙」の中でも、最晩年のものの一つに、「慶応3年11月7日」、つまり暗殺の8日前に書いた海援隊士・陸奥宗光(のちの外務大臣)あての手紙があります。
 この手紙の中で、大政奉還が成功したあとの龍馬は、「これからは世界の話をしよう」と言っています。

 この頃のエピソードを、おしまいに紹介します。

 坂本龍馬が、西郷隆盛たちに「新政府の要職の名簿(案)」を見せました。
 西郷はその名簿を見て驚きました。
 「坂本さん、君の名前が見当たらんが、忘れもしたか。」

 龍馬はニコッと笑って答えました。
 「僕は、役人にはならんつもりじゃ。」
 西郷は、驚いて問い直しました。
 「では坂本さんは、これから何をおやりなさる?」
 
 「そうじゃなあ。世界の海援隊でもやりますか。」
 その時の龍馬の瞳は、西郷よりもはるかに遠い水平線を見ているように見えたということです。

 事実、坂本龍馬のこの頃の夢は、北海道開拓や海外との貿易など、「世界の海援隊」に向いていました。
 因(ちな)みに、龍馬の死後、「海援隊」の船を生かして、世界貿易をしたのが、同じ高知県出身で大河ドラマ「龍馬伝」でも活躍した、三菱財閥創始者の岩崎弥太郎でした。


<坂本龍馬の和歌>

 又あうと おもう心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな


<my 短歌>

 龍馬ゆく 夢は世界の 海援隊  道なき空を 今も旅する

  


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