2015年11月9日月曜日

高倉健さん1周忌 (1)~生い立ち・任侠スター・結婚と別れ~

   2014(平成26)年11月10日に、日本を代表する俳優・高倉健さんが「悪性リンパ腫」のため亡くなられて、1年になります。

 今回から2回に渡って、「神・俳優 高倉健」さんの1周忌に因(ちな)んで、健さんの「神エピソードと名言」を紹介しながら、高倉健さんを偲びたいと思います。
 1回目は、高倉健さんの生い立ちと江利チエミさんとの結婚、任侠映画のスターになるまでを紹介します。

 高倉健さんは、日本屈指の俳優でありながら人への思いやりを忘れず、決して偉ぶらず、共演者はもちろん、エキストラやスタッフにまで丁寧に挨拶されました。
 また、撮影中はイスに座らず、極寒の北海道の撮影(1999年の「鉄道員(ぽっぽや)」)でも焚き火にあたらなかったなど、自分を厳しく律するエピソードも伝えられています。

 まず健さんが、埼玉県川越市の少年刑務所を慰問で訪れた時の名言を紹介します。
「あなたたちの心の中に、だれか一人、あの人に褒められたいと思う人がいるでしょう。
 その人が喜んでくれるには何をすればいいのか。
 そのことを考えて、一日も早く更生してください。」
と受刑者に語りかけました。

 高倉健(たかくら けん)さんは、本名は小田剛一(おだ ごういち)で、1931(昭和6)年2月16日に、福岡県の遠賀川流域の炭鉱町・中間市に生まれました。
 お父さんは元海軍軍人で港運会社に勤務し、お母さんは教師で、厳しい教育を受けました。

<高倉健さんの故郷、福岡県中間市のボタ山>



 高倉健さんは、福岡県立東筑高等学校商業科を経て、明治大学商学部商学科に入学します。
 在学中は、中学校でボクシング部、高校でESS(英会話部)に所属し、大学では相撲部のマネージャーを務めました。

 明治大学を卒業した時は、思ったような就職先がなく、一旦、福岡へ帰郷します。

 しかし、「このままでは埋もれてしまう。」と再上京、1955(昭和30)年に、芸能プロのマネージャーになるために喫茶店で面接を受けます。
 この時、たまたま居合わせていた「東映東京撮影所」所長で映画プロデューサーのマキノ光雄さんにスカウトされて、東映へ俳優として入社します。

  24歳で「俳優座養成所」に預けられた健さんですが、何をやってもサマにならず、教室中が笑い転げるほどでした。
 指導教師には、「授業にならないからあなたは見学してなさい。俳優になるのはあきらめたほうがいい。」と言われたそうです。

 健さんは、当時のことをこう振り返っています。
 「屈辱ですよね。僕の俳優人生は、このコンプレックスから始まったんです。その思いはずっと続いてて、いまだに役作りができませんね。」

 翌年、1956(昭和31)年に、映画「電光空手打ち」でいきなり主演デビューしますが、売れませんでした。
 同じ年に日活から石原裕次郎がデビューして、国民的人気スターになったのと対照的に、鳴かず飛ばずの日々が続きました。

 高給取りの石坂裕次郎さんを見て健さんは、「同じ同期の俳優なのに、どうしてこんなに違うんだろうってショックでした。日本一高いギャラをとれる俳優になりたいと思った。」そうです。

 1964(昭和39)年から「日本侠客伝シリーズ」が始まりやっと売れ始め、1965(昭和40)年からは「網走番外地」シリーズや「昭和残侠伝シリーズ」などにも主演し、東映の看板スターとなりました。

 任侠映画では、こんなエピソードが語られています。
 高倉健さんが1973(昭和48)年に主演し大ヒットした「山口組三代目」のモデルで、日本の暴力団の頂点を極めた田岡一雄山口組三代目組長(1913~1983年、徳島県出身)が、高倉健さんの映画ロケを見た後の車の中で、「わしの役が高倉健でよかった。あいつは男の中の男だ。」と満足そうに話したそうです。
 男が男に惚れる「健さん」ファンは、業界を超えて広がっていた逸話だと思います。


 プライベートでは、1959(昭和34)年に、当時、美空ひばりさん、雪村いづみさんと並ぶ「3人娘」の一人として絶大な人気のあった江利チエミさん(1937年~1982年 東京都台東区出身)と結婚します。

 交際中には、仮病で入院してチエミさんに見舞いに来てもらったり、「10分だけでも会いたい」と新幹線のない時代に、ロケ地の静岡から大阪へ夜行列車で通ったりする一途さを見せたそうです。

 結婚後もチエミさんと仲がよく、1962(昭和37)年には待望の子宝を授かったものの、流産してしまいました。
 さらに、1970(昭和45)年には自宅が全焼するという不運も重なり、チエミさんの異父姉の虚言や使い込みで、チエミさんに迷惑がかかるのを避けるために、1971(昭和46)年に離婚しました。

 しかし、健さんはチエミさんを愛し、2度と結婚することはありませんでした。
 そればかりか、1982(昭和57)年2月13日に、江利チエミさんが45歳で病死すると、お墓から200mの所に2億円の豪邸を建て、命日には必ず墓参したそうです。

 「自分、不器用ですから」のCM通りの愛だったようで、すごく好感がもてますね。

<高倉健さんが毎年墓参した江利チエミ(本名 久保智恵美)さんのお墓>




 任侠映画の大スターになった高倉健さんですが、これで終わらなかったのが、高倉健さんのすごいところです。
 1976(昭和51)年、45歳の時に、「任侠映画以外の仕事もしたい。」という決意のもと、東映を退社しフリーになります。
 ここから、任侠映画だけでなく広く社会に認めらる「もう一つの映画俳優」・高倉健さんが生まれます。


<一句>
 夢チエミ  ぼくはフリーじゃ  風になる

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