2015年11月28日土曜日

ダイエット食?「コンビニおでん」ランキング ~おでんの不思議な物語~

 「晩秋」、「初冬」という言葉がぴったりの季節になりましたね。
 北日本では大雪、東日本では木枯し、そして西日本でも紅葉の季節です。

 この季節に、恋しくなる食材と言えば、「おでん」ですね。
 そこで今回は、心があったかくなりそうな「おでん」の話をしたいと思います。


 まず、今どきのおでんの代表とも言える、コンビニおでんの「売れ筋ランキング」を紹介します。
 今回紹介するのは、「セブンイレブン」「ローソン」「ファミリマ-ト」で売れた「おでん種(だね)」のランキングを、3つ合わせた総合ランキングです。(資料は2013年のものです。)

 各コンビニの「おでん種」売り上げベスト5に、<1位5点、2位4点、3位3点、4位2点、5位1点>の点数をつけ、その合計の多いものを上位としました。

 まず、同点で2種類ある4位の種は、「厚揚げ」と「牛筋」で、共に5点です。
 「厚揚げ」は、セブン4位、ローソン4位、ファミマ5位と安定しています。
 「低カロリー」と言われるおでんですが、「厚揚げ」のカロリーは、76~122kcalで、同じチェーン店でも地域差があるみたいです。

 もう一つの4位「牛筋」は、セブン2位、ローソン5位、ファミマ圏外と、「セブンイレブン」の人気商品のようです。
 牛筋のカロリーは、21~51kcalですが、こちらも地域差がかなりあるようです。
 牛筋より、厚揚げがカロリーが高いのは意外ですね。

 「コンビニおでん」の売れ筋第3位は、「白滝」で7点です。
 ローソンとファミマで3位、セブンでは5位です。
 注目はカロリー数で、6~12kcalと超低カロリーで、おいしい割りにダイエットの味方ですね。

<写真 コンビニ(ファミリーマート)のおでんセール>
 




 ここで、少しランキングから離れて、「おでん」のウンチクを紹介します。
 
 「おでん(御田)」は、煮物または鍋料理に分類される日本料理です。
  味付けしたつゆに、さまざまな「おでん種(だね・たね)」を入れて煮込みます。

 おでんは、田楽に丁寧さを表す「お」をつけた「女房言葉(おにぎり、おひやなどと同じ)」で、宮中や武家の女性の間で使われていました。
 江戸時代以降「おでん」は、「煮込み田楽」を指すようになりました。

  江戸時代、豆腐を串に刺し、焼いて味噌を付けて食べる「田楽」が江戸名物となりました。
 やがて、せっかちな「江戸っ子」に合わせて煮込みが行われるようになったと言われています。

 関西(上方)でも、江戸の名物として「関東炊き/関東煮(かんとだき)」と呼んで、おでんが食べられるようになり、昆布・クジラ・牛すじなどでダシをとったり、薄口醤油を用いたりと、関西風のアレンジが加えられていきました。

 関東のおでん屋は、1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な被害を受けますが、その際、「関西風のおでん」が、関東へ逆輸入され、関東と関西のおでんがミックスされ、様々なおでん種やつゆの「おでん」が、全国に広がっていきました。

 昭和のおでんは、専門店よりも飲食店のメニューの1つ、屋台、そして家庭料理として人気が出ました。
 1979(昭和54)年、セブンイレブンがコンビニで初めて「おでん」を発売し、平成に入ると「コンビニおでん」が各コンビニで人気商品となりました。
 各社の売り上げは不明ですが、セブンイレブンだけで、2011年に2億7700万個の「おでん種」が販売されたそうです。すごい量ですね。

 ここで、世にも不思議な「コンビニおでん伝説」を、いくつか紹介します。
 まず、「コンビニおでん」の売り上げピークの月は、何月か、ご存じですか?

 12月?、1月?、2月?、「ブゥー」、全部違います。

 実は、10月なんだそうです。
 理由ははっきりしませんが、CMなどで「コンビニでおでん」を積極的に売り始める時期であるということと、夏が過ぎ久々に気温が下がり、「あたたかい食べ物」が欲しくなるけれどまだ家庭や飲食店には、「おでん」はないからなどが考えられます。
 でも、本当のところはわかりません。

 もっと、不思議なのは、10月がピークで、あとは10月の売上から若干下がった所で、その冬のシーズンは、あまり下がらず推移するという現象です。

 つまり、10月の売り上げが高ければその冬はずっと「おでん」の売り上げが好調で、10月の売り上げが低いと、その冬の「おでん」はずっと売り上げが低調ということになります。
 コンビニおでんの「決戦は10月」という、不思議な、でも本当の話です。

 もう一つ、「コンビニおでん」の不思議な話をします。
 全国47都道府県に店舗のある「ローソン」で、1店舗あたりの「おでん売り上げ」が一番多いのはどこの都道府県か、おわかりですか?

 東京?、大坂?、北海道?、これも難問です。
 
 実は、「沖縄県」なんです

 暖かいというより、暑いイメージの沖縄県が、「おでん売り上げ日本一」というのは、本当に不思議ですね。。(因みにローソンに限ったのは、セブンイレブンは沖縄に店舗がなく、ファミリーマートは非公表という理由からです。)

 理由は、「沖縄県では家庭であまりおでんを作らない」からとも言われていますが、沖縄の「おでん」の売り上げは、8月で全国平均の2倍、12月では3倍ということですので、すごいです。

 このブログでは、コンビニ3社のベスト5でランキングを算出しましたが、ローソンのおでんの売り上げ全国ベスト10には、沖縄県限定販売の「沖縄厚揚」、「沖縄風ソーキ」、そして「島コンニャク」と、3つも沖縄だけのものが入っているそうです。
 香川県は、「うどん県」と自称していますが、沖縄県は「おでん県」って言ってもいいのか知れませんね。

<写真:沖縄のコンニビおでんのメニュー>



  さて皆さん、だいぶ寄り道をしてしまいましたが、「コンビニおでん」の売れ筋ランキングに、戻りましょうか。

 ランキングの第2位は、「たまご」で11点です。
 ローソンとファミマで2位、セブンイレブンで3位と、安定した人気を誇ります。
 カロリーはというと、72~85kcalです。

 実は、私の一番好きな「おでん種」は、たまごです。
 子供の頃、共稼ぎだった母親が、作り置き用に仕込んでくれた「おでん」を食べるのが大好きでした。
 中でも「たまご」は、小皿に取って半分に割って黄身をだしに解かすと、他のおでん種までおいしくなって、最低でも3個ぐらいは食べていました。
 さすがに、健康のために今は控えていますが、それでも2個は食べます。

 いよいよ1位の発表です。
 この「おでん種」の得点は、なんと15点満点です。
 つまり、セブンイレブンでも、ローソンでも、ファミマでも、1位なんです。

 他の追随を許さない、不動の「おでん王」は、「大根」です。
 商品名は、セブンイレブンが「味しみだいこん」、ローソンが「ローソンファーム大根」、そしてファミリーマートは「大根(単純明快?)」です。
 カロリーはというと、なんと8~13kcalという低さです。
 確かに、コンビニおでんは、ダイエット食品と呼んでもよさそうですね。
 
 このブログを書いていて、私も「コンビニおでん」が食べたくなって、実はさっき買ってきて食べてしまいました。(お先にすみません)

 ベスト3の「大根、たまご、白滝」を食べてみましたが、本当においしかったです。
 「コンビニおでん」は、セールの時には、1日10万円以上を売り上げるほどの人気商品だそうですが、特に大根の味のしみ具合を味わうと、本当に癖になる味だと思いました。

<コンビニおでんの売れ筋ベスト3 (写真はローソンのおでん)>



 ところで、2015(平成27)年10月より、テレビ東京系(BSジャパンを含む)で、毎週火曜日の1時35分(深夜)に、「おそ松さん」というテレビアニメが始まっています。

 このアニメは、「天才バカボン」や「ひみつのアッコちゃん」などで有名な漫画家・赤塚不二夫さんの原作の「おそ松くん」(1966(昭和41)年~1967(昭和42)年と、1988(昭和63)年~1989(平成元)年に、2度テレビアニメ化)のリメイクです。

 6つ子の兄弟(おそ松、カラ松、チョロ松など)が主人公なのですが、この中に「シェー」という流行語で有名な「イヤミ」と並び、強烈キャラのわき役で登場するのが、いつもおでんを持っている「チビ太」です。

 漫画やアニメでは、チビ太は、棒に△〇を突き刺した「おでん」を持っています。わかりやすい略画で、子供たちがよく真似をしたそうで、「おでん」を表す定番になっています。
 これは、「こんにゃく、がんもどき、鳴門巻き」を描いたものだそうです。

 このおでんは、21世紀になって、「サークルKサンクス」が「チビ太のおでん」として復活させたそうです。

 さしずめ、今回の「コンビニおでんのランキング」だと、平成のチビ太のおでんは、「だいこん、たまご、白滝」ということになりますね。

<おでんコンニャク>




 最後に、今は亡き祖父が好きだった「おでんコンニャク」の話をさせてください。
 
 祖父がガンになって入院していた時のことです。
 「〇〇の店のおでんコンニャクを買ってきてくれ。」と頼まれて、車で買いに行ったことがありました。

 その店は「うどん」がおいしいと評判の峠にある店でしたが、なぜか祖父に「おでんコンニャク」をリクエストされ、みそだれをいっぱい着けて買って病院へ戻りました。

 病室のベットで上半身だけ起き上がり、「うまい、うまい。」とおいしそうに食べる祖父を見ていた時、突然、看護師さんが入ってきました。
「まあ、おでんなんか食べて、△△さん、病室は、病院食以外は禁止ですよ。」
 
 焦る祖父に、看護師さんは、笑顔でこう続けました。
「でも、〇〇の店のおでん、おいしいのよね。今日は、先生には内緒にしてあげますね。特別ですよ。」

 そう言って、看護師さんが部屋のドアを閉めると、祖父は安心して、「おでんコンニャク」の残りを、おいしそうに食べました。

 それから数カ月後、祖父は病院で亡くなりました。
 今、思うと、あの看護師さんは「祖父が不治の病」にかかっていたから、「おでんコンニャク」を見逃してくれたような気がします。
 今でも、おでんのコンニャクを見ると、あの時の祖父の笑顔が思い出されます。

 昭和の「家庭料理」の代表格だったおでんは、平成の今では、独身者が食べる「あったかいもの」のシンボル、いわば「青春おでん」(年齢・性別は問いません)と言ってもいいのかも知れません。
 一つだけ、今も昔も変わらないのは、「おでん」が日本人の心に沁みる日本料理であることだと思います。
 今夜は、「おでん」にしませんか?


<一句>

・ じいちゃんの おでんコンニャク なみだ味   

・ コンビニの おでん沁み入る  一人部屋  
 

2015年11月24日火曜日

ニュースな街「フランス・パリ(2)」~パリが聞こえる(観光と今)~

  「フランス人は走らない」という言葉があるそうです。
 普段は、オシャレで高級な靴を履いているので走らないとか、冷静沈着を装い走らないとか、いろいろな説がありますが、そんなパリのフランス人たちも、今回の「同時多発テロ」では走って逃げていました。

 「パリの街」を紹介する2回目(後半)は、パリの街の観光と、「パリ在住の日本人」が見たパリの今の様子を中心に、紹介します。


 訪れる観光客が年間8400万人と世界一の観光立国「フランス」、その首都パリだけで年間3000万人の観光客が訪れます。単純に言うと、毎日8万2000人がパリ観光をしている計算になります。(2013年の統計)

 パリの観光名所の1番人気はというと、「エッフェル塔」でも「ルーヴル美術館」でもなく、パリ発祥の地として前回紹介したシテ島にある「ノートルダム大聖堂」です。

<写真 世界遺産「ノートルダム大聖堂」(フランス・パリ)>



  「ノートルダム大聖堂」は、年間1000万人が訪れる「パリ最大の観光地」で、西暦1163年(日本では平安時代の末期で平清盛が活躍)に、パリ司教モーリス・ド・シュリーによって起工され、1345年(日本の南北朝時代)までの約200年の歳月を経て完成しました。
 ゴシック建築の最高傑作と言われています。

 全長127.5メートルで高さ32.5メートルという巨大な大聖堂で、 「ノートルダム」とはフランス語で「我らが貴婦人(マリア)」を意味しており、その外観の美しさから「白い貴婦人」の愛称で親しまれています。
 ノートルダム大聖堂の前には、「ポワンゼロ」と呼ばれる「フランスの道路の起点」があります。(ちなみに日本の国道の起点は、東京・日本橋にあります。)

 ノートルダム大聖堂は、歴史の舞台にもなっています。
 1804年(江戸時代)には、「ナポレオンの戴冠式」が大聖堂で行われ、1831年のヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(日本名「ノートルダムのせむし男」)の舞台にもなっています。
 そして、2015年11月15日には、ここで「パリ同時多発テロ事件」の追悼ミサが開かれ、多くのパリ市民が出席しました。

<写真 ノートリダム大聖堂の「ガーゴイル」(グロテスク)越しに見るパリの街>





 次に、パリの人気観光地の2位から5位を紹介します。

・2位 モンマルトル・サクレクール寺院 年間約800万人

・3位 エッフェル塔 年間約580万人

・4位 ルーヴル美術館 年間約570万人

・5位 ポンピドゥーセンター 年間約530万人  
 

 ベスト5のうち、「ノールダム大聖堂」、「エッフェル塔」、「ルーヴル美術館」は、1991(平成3)年に「パリのセーヌ河岸」という名称で、世界遺産に登録されています。

 第2位の「モンマルトルの丘」と言えば、ピカソを初めとする芸術家の卵が、今も昔も活動するテルトル広場や、数多くの映画の舞台にもなった「青春の丘」のイメージですね。

 特に最近は、映画「アメリ」に出てきた「カフェ・デ・ドゥ・ムーラン(Cafe des 2 Moulins「2つの風車カフェという意味」)」というカフェが、日本人女性を中心に人気の観光地となっています。

 パリの観光地の話は尽きませんが、もう一つ「97.8%」という数字を紹介しておきます。
 何の数字かわかりますか?

 実は、パリへの観光客のリピート率なんです。ほとんどの人が、再びパリを訪れたいというこで、すごいですね。
 「ロンドンの街はロンドンに住む者のために作られ、パリの街は訪れる人のために作られた。」
という諺(ことわざ)があるそうですが、パリはそれほど魅力的な街だということですね。

<モンマルトルの丘>




 最後は、11月13日の「同時多発テロ」後のパリようすを、紹介します。
 ニュースを元に紹介する方法もありますが、やっぱりパリに住む日本人の目で見た街の様子が知りたいですね。
 そこで、パリ在住の3人の日本人のブログの一部を紹介してみます。


「 美しいパリの街が、悲しみと不安とに包まれているように感じます。
 それでも、明日からまた子供に不安を悟られないよう、明るく楽しみを見つけながら、最大限、気   をつけて過ごしてゆきたいと思います。
 祈る事しかできないけれど、平和であることのありがたさを、奇跡を、つくづく感じます。
 皆の心が明るくなり、憂慮なく明るく道を歩ける日が、一日も早く訪れますように。」
Paris Maman GRACEさん(パリ在住の主婦)の ブログ 「フランス 子供と暮らすパリ便り」より 2015.11.16 「心を映して 今のパリ」)

「(テロがあったのは)元々わかっていた場所だから、別に普通に生活してる分は怖くないよ。
と言う反面,非常事態宣言が3ヶ月間に延長されたけど短すぎる!と反対するパリジャン。
 シリアに対する軍事攻撃に対する反論は一切なし。
 また攻撃に対する反対デモも一切なし。
  パリ市内、観光客がいない事を除けば、パリジャンの生活は完全に普通に戻ったわね。
  BFMTV(24時間毎日ニュースを流すケーブルテレビ)では、昨日まではCMがほとんど流れずテロの情報ばかりだったけど、今日はバンバンCM流れてるわね。」
(BOSSさんのブログ「3人娘?がパリの薔薇色の生活をご紹介!」より 2015.11.21)

「土曜日から(日本から来た)友人を連れて、いろいろと観光名所を回っておりますよ。
どこもかしこも,いつもとかわらぬ美しさで、やっぱり、パリは綺麗〜っ、と感動してくれてます。
もちろん,要所要所に、特殊機動隊の方達がいて、物々しい雰囲気ではあるけれど
パリに慣れている友人は、テロの前から彼らは普通にウロウロしてたから、
あまり違和感無いね〜と。
そんな所もちゃんとわかってくれているので、こちらとしても気楽だわ〜
しいて言うなら、ここ数日の私の敵は、突然おとずれた寒波。
パリの寒さを忘れておりましたよ。さむーーーーーいっ。」
(マダム愛さんのブログ「マダム愛の徒然日記」より 2015年11月23日)


 日本でも、大震災の時やオウム事件の時などに、「平和のありがたさ」を感じましたが、今のパリはきっとあの時の日本と同じなんですね。
 テレビのCMなしと聞いて思い出したのも、「東日本大震災」の発生時に、公共広告以外のCMが全部自粛された民放テレビのことでした。

    この3つのブログとも、これらの記事以外は、楽しそうな「買い物」、「子育て」、「ファッション」の話を書かれています。
 パリもフランスも、動揺はしていても混乱してないぞ、「たゆたえど沈まず」だと、言いたげですね。

 3人のブログから、「今のパリの鼓動」が聞こえてきますね。
 みなさんの無事を祈るばかりです。

<三色旗色にライトアップされたパリの夜景>



 日本でも、「靖国神社で爆発物発見」のニュースが報道されています。決して、安心してはいられませんね。

 今回は、「同時多発テロ」に襲われたパリの街の、歴史・観光地・そして在住日本人の今を紹介しました。

 同時多発テロを受けて、フランスのオランド大統領は、「ISとの戦争に突入した」と宣言し、空母「シャルル・ドゴール」に、臨戦態勢に入るように命令しました。
 フランス軍への入隊希望者も増えているそうです。

 テロ、戦争、革命、レジスタンス、難民・・・・・、実は、これらは全部、これまでにパリが体験してきたことです。

  パリ(仏: Paris)の語源は、ローマ人から見た呼称「パリシイ(Parisii(複数形)」で、単数形は Parisius「田舎者、乱暴者」)です。
  今、世界が憧れる「おシャレで洗練された大都会・パリ」も、元は「田舎者、乱暴者」だったのです。そして、その歴史も、決して平坦ではありませんでした。

 そんな中から築き上げてきた「パリ」の好イメージが本物であることを、今こそ世界に示してほしいと思います。

  戦争やテロ、争いのない世界に導くために、パリが、フランスが、日本が、そして世界が、向かうべき道はどこにあるのでしょうか?
  とても難しい問題ですが、「不屈のパリ」の精神で、必ず「平和」を実現できると信じたいです。
  なぜなら、フランスには、こんな「諺(名言)」がありますから。

「不可能という言葉はフランス語にはない。/フランス人は、なにかが不可能だとは考えない。」
 Impossible n'est pas français. (ナポレオンの言葉?)
 
 不可能への挑戦! 「パリは燃えているか?」


 

2015年11月22日日曜日

ニュースな街「フランス・パリ(1)」~不屈の歴史、たゆたえど沈まず~

 同時多発テロ事件で、世界中から注目されている街「フランス・パリ」、今回からは、知っているようで意外と知らない「パリの街」の話をしたいと思っています。
 
 1回目は、「パリのプロフィールと歴史」を紹介します。

 「観光の街」、「花の都」、「ファッションの都」、「芸術の都」などなど、いろいろな好イメージの形容詞がつけられ、日本人の憧れの街となっているパリですが、本当のところはどうなのでしょう?
 まず、パリの街のプロフィールを紹介します。

 「パリ( Paris、巴里)」は、フランスの首都で、市内を東から西に流れるセーヌ川の中洲とその両岸に開けた内陸都市です。
 人口は、パリ市が約225万人、周辺を含む都市圏で約1229万人です。(2011年の統計)
 
 位置は、北緯48度51分、東経2度21分で、北海道の最北端よりも北にあります。(日本の札幌は北緯43度で、フランス南部のマルセイユとほぼ同じ緯度です。)
 パリの標高は平均33mで、最高は「モンマルトルの丘」の131mです。

 パリ出身者・居住者は男性がパリジャン(: Parisienne)、女性がパリジェンヌ(仏: Parisienne)と呼ばれています。
 
<写真: パリの夜景>

 
 


 パリの歴史をひも解いてみましょう。

 セーヌ川の中洲「シテ島(パリ発症の地)」には、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあったと言われています。

 その後、ローマ帝国の支配を経て、508年(日本では飛鳥時代)には、メロヴィング朝フランク王国の首都となりました。しかし、まもなくフランク王国の中心はライン川流域に移ります。

 西暦987年(平安時代)に、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙され、パリはフランス王国の首都となりました。
 やがて、シテ島に王宮(シテ宮)が作られ、セーヌ川の右岸(北側)は中央市場などの商人の町、左岸(南側)はパリ大学を中心とした大学の町として発展していきます。

 13世紀(鎌倉時代)になると、ルイ9世(1214年~1270年)によって、「サント・シャペル(聖なる礼拝堂)」や「ノートルダム大聖堂」が建てられ、14世紀初めには、パリは人口20万人の大都市になります。

 その後、百年戦争(1337年~1451年)でパリの人口は10万人にまで減りますが、1594年(安土桃山時代)、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復します。
 続くルイ13世、ルイ14世の治世で、パリの人口は50万人にまで拡大します。

 そして1789年(江戸時代)7月14日、ルイ16世の時に「フランス革命」が起きます。
 この革命の多くの重要な出来事は、パリ市内で起こっています。

 国王ルイ16世とマリー・アントワネットが、「革命広場(現在のコンコルド広場)」でギロチンで処刑されたのをはじめ、ジャコバン派の独裁政権下等で多くの人々が処刑され、パリは混乱しました。

 1799年、政権の座についた 「ナポレオン1世(1769年~1821年」は、パリを「新しいローマ」とすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建てました。

 19世紀に入ると「第一帝政」(1804年~1815年)、復古王政期及び1848年の「二月革命」を経て、「第二共和政」、「第二帝政」、「第三共和政」へと、王政、帝政、共和政が混在して、政治的には安定しませんでした。

 しかし、「産業革命」により、パリは経済的、文化的には繁栄しました。
 文豪では、「レミゼラブル(ああ無情)」のヴィクトル・ユーゴーや、「赤と黒」のスタンダールなどが活躍し、画家では、マネやモネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどが活躍しました。

 鉄道もパリ市内に開通し、1837年の「パリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅」をはじめとして、「モンパルナス駅」、「パリ北駅」、「ストラスブール駅(パリ東駅)」などが次々と建設されていきました。

 1860年(幕末)に、パリ中心部から時計回りに20の行政区が整備され、「かたつむり(エスカルゴ)」の殻の形に似ているので「エスカルゴ」と呼ばれ、現在にいたっています。

<パリの行政区>



 19世紀末から20世紀初めにかけては、パリで数回の万国博覧会が開かれました。
 1889(明治22)年の万博では、エッフェル塔が建てられました。また、1900(明治33)年にはメトロ(地下鉄)も開業しました。
 この頃のパリは、「光の都」と呼ばれました。

 20世紀に入ると、パリは2つの世界大戦に巻き込まれます。
 第一次世界大戦(1914年~1918年)では、ドイツ軍がパリの目前まで迫りますが、陥落を免れます。

 しかし、第二次世界大戦(1939年~1945年)では、ナチス・ドイツのフランス侵攻により、1940年6月14日に、ドイツ軍がパリをほぼ無血で占領します。6月23日にはアドルフ・ヒトラーもパリに入ります。
 ドイツ占領下のパリでは「レジスタンス運動」が行われ、ナチス政権に市民が抵抗します。この抵抗運動を描いたのが、映画「パリは燃えているか」(1966年 アメリカ・フランス合作)です。

 1944(昭和19)年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放されます。
 このとき、ドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していた「ディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍」は、ヒトラーからパリを破壊するように命令されますが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏しました。
 この英断により、後に、コルティッツは、フランスから名誉パリ市民号を贈られます。
 
 大戦後は、高速道路網や、「RER」(地域圏急行鉄道網)と呼ばれる郊外と市中心部を直結する鉄道などが建設されます

 20世紀のパリでは、「異邦人」を書いたカミュ(小説家・哲学者)や、サルトル(哲学者)、キューリー夫人(化学者・物理学者)をはじめ、数え切れないほどの文化人・科学者が活躍し、今もパリは「芸術の都」、「世界一の文化都市」と呼ばれています。

 そして今年、2015年、パリは2つの「同時多発テロ」で襲われました。
 まず、1月7日にはパリ11区の風刺週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社などで、テロがあり、併せて12人が死亡、11人が負傷しました。

 そして、11月13日の金曜日に、パリ10区と11区の劇場や飲食店、郊外のサン=ドニにあるスタジアム「スタッド・ド・フランス」などで、銃撃戦と爆発が同時多発的に発生し、少なくとも130人の市民などが犠牲(他に犯人8人も死亡)になり、300人以上が負傷しました。

  因みに、現在のパリ市長は、アンヌ・イダルゴ(1959年生まれ、スペイン出身、在2014年~)さんで、初めての女性パリ市長です。


<パリに哀悼の意を表し、フランス三色旗カラーに点灯された東京スカイツリー>



 おしまいに、パリ市民の標語(スローガン?)の話をします。

 パリ市民の標語は、ラテン語で “Fluctuat nec mergitur (フランス語 Il tangue mais ne coule pas)”、という言葉です。

 日本語では、「たゆたえど沈まず」(エールフランスのガイドブックなどに記載)と訳されていますが、「たゆたえ」が難しくて、よくわかりませんね。

 そこで、「たゆたえ」を国語辞典で引いてみると、「1(船などが)ゆらゆらと揺れ動いて定まらない。 2 気持ちが定まらずためらう。心を決めかねる。」と出てきます。

 パリ市民の標語は、元は「セーヌ川水運組合の紋章」からだそうですので、少し日本語意訳すると、「心は揺れ動いても、決して絶望はしない(セーヌ川に沈まない)!」というような意味だと思います。

 パリの歴史を振り返ると、「百年戦争」、「フランス革命」、「ナチス・ドイツの占領」など、パリの街とパリジャン・パリジェンヌたちは、多くの苦難に苦しみ動揺し、それでも不屈の精神で困難に立ち向かい、そこから立ち直ってきたのです。

 それが、「たゆたえど沈まず(セーヌの流れに揺れ動いても沈まない)」ということだと思います。

 今回の同時多発テロのあと、1週間後のパリは、冷たい雨に濡れていて、「パリは泣いている」と伝えられています。
 それでも、パリ市民の標語(スローガン)の精神で、セーヌに沈まずにがんばってほしいと願います。

 次回は、「パリの観光とパリの今」を紹介したいと思っています。


<一句>

 鎮魂の パリは揺れても セーヌ悠々

 東京の  タワーもツリーも  三色旗


<写真 セーヌ川>
   
 

2015年11月16日月曜日

坂本龍馬生誕180年・竜馬の夢(2)~世界の海援隊~

 今年(2015年)11月15日で、生誕180年になった「坂本龍馬」を紹介する話、今回はその2回目(後半)です。

 文久3(1863)年、28歳目前の龍馬は、勝海舟の「神戸海軍塾」塾頭になり、「エヘン顔をして」(龍馬の手紙より)得意になります。

 この年の龍馬の手紙の一部を、紹介します。

「そもそも人間の一世は、合点の行かぬは元よりのこと、運の悪い者は、風呂より出でんとして金玉を詰め割て死ぬる者もあり。
 それと比べて、私などは運が強く、死ぬる場でも死なれず(中略)、今にては日本第一の人物、勝麟太郎(海舟)という人の弟子になり(中略)、国のため天下のため力を尽くしおり申し候。」
(文久3(1863)年3月20日 坂本乙女(姉)あて龍馬書簡より)


 ところが、龍馬が有頂天になっていたこの年、政治情勢が大きく変わります。
 まず、龍馬が脱藩した土佐藩では、山内容堂が武市半平太から藩の実権を取り戻し、土佐勤王党の弾圧が始まります。そして9月には、武市半平太も投獄されます。

 京都では「8月18日の政変」が起き、薩摩藩と会津藩が手を組み、長州藩を中心とした倒幕勢力を京都から一掃します。

 さらに、翌元治元(1864)年6月5日には、京都で「池田屋事件」が起こり、長州藩などの尊王攘夷派の志士が新選組に惨殺されます。
 続いて7月19日には、「蛤御門(禁門)の変」が起き、長州軍が京都御所周辺の戦闘で、会津・薩摩などの幕府勢力に惨敗します。
 そして11月には、「第1次長州征伐」で長州が幕府に降伏し、倒幕勢力の灯は、一人の男を除いてほぼ消えてしまいます。

 この情勢は、龍馬の周辺にも大きな変化をもたらします。
 「池田屋事件」や「蛤御門の変」に、神戸海軍塾の塾生が関係した責任をとらされ、勝海舟は11月に軍艦奉行を罷免されます。
 神戸海軍操練所の廃止も決定的となります。勝海舟は罷免される直前、龍馬らの塾生を薩摩藩に庇護してもらいます。

 この年、龍馬の人生にとって、もう一つ大きな出来事が起きています。
 5月に生涯の伴侶となる「楢崎龍(お龍)」と出会い、8月には内祝言を京都で挙げています。現在の満年齢で言えば、龍馬28歳の結婚です。

<坂本龍馬の写真>




 しかし、元治元(1864)年は、このままでは終わりませんでした。
 歳も押し迫った12月15日に、長州の功山寺(山口県下関市)で、最後に残った尊王倒幕派の星である高杉晋作が、80名余りの尊王派志士と挙兵します。

 最初は僅かな兵の挙兵でしたが、民衆や奇兵隊などの支持を得て、長州の反論を佐幕から倒幕へ転換することに成功します。やがてこれが、倒幕への流れを作ることになります。

 明けて慶応元(1865)年、龍馬は江戸、京都、大坂(大阪)、下関などを奔走し、5月には長崎で日本最初の商社と言われている「亀山社中(のちの海援隊)」を、薩摩藩の出資のもとに立ち上げます。

 龍馬らは、犬猿の仲だった「長州」と「薩摩」を同盟させ、倒幕の一大勢力作りを画策します。
 薩摩から長州へは「武器弾薬」を、長州から薩摩へは「兵糧米」をと、それぞれ喉から手が出るほど欲しかった物資の取引を、「亀山社中」の仲介します。

 そして、慶応2(1866)年1月22日、京都の薩摩藩邸で、龍馬の仲介により、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間で「薩長同盟」が締結されます。(この歴史的文書には、一介の浪人である坂本龍馬の朱書きの裏書があります。)

 この翌日、1月23日の夜、京都・伏見の寺田屋で宿泊していた龍馬を、幕府の官吏が襲撃します。龍馬は指を切られますが、裸で急を知らせたお龍の機転と、高杉晋作に贈ってもらった「6連発拳銃」のおかげで、九死に一生を得て脱出、薩摩藩邸に庇護されます。

 このあと、西郷隆盛の勧めで、龍馬とお龍は、当時よそ者を拒否していた薩摩(鹿児島)を旅し、霧島温泉や霧島山登山などを訪問します。これが、「日本最初の新婚旅行」と言われています。

 この後の龍馬の活躍は目覚ましく、慶応2年6月には、「第2次長州征伐」に出兵した小倉の幕府軍に対抗する高杉晋作率いる長州軍に、亀山社中の蒸気船で加勢して、見事に幕府軍を打ち破ります。
 坂本龍馬と高杉晋作が、一緒に戦うという場面は、まさに「幕末の2大風雲児の夢の競演」だと思います。

 慶応2年12月、龍馬は姉乙女に、この年の出来事を手紙にして送っています。
 「1月の寺田屋での幕吏との死闘」や「鹿児島への新婚旅行」など、詳細な絵入りの手紙を書いていて、なかなか読みごたえがあります。
 その中から、龍馬の言葉を紹介します。

 「世の中のことは月と雲、実にどうなるものやら知らず、おかしきものなり。
  家におりて、『味噌よ薪よ、年の暮れは米受け取りよ』などよりは、
  天下の世話は実に大雑把なるものにて、命さえ捨てればおもしろき事なり。」
(慶応2(1866)年12月4日 坂本乙女(姉)あて龍馬書簡より)

<龍馬が姉・乙女に送った手紙の霧島山の挿絵 (京都国立博物館蔵・重要文化財)>



 明けて慶応3(1867)年は、坂本龍馬の人生で最後の年になります。

 まず1月には、龍馬は「土佐藩」高官の後藤象二郎と長崎「清風亭」で会談します。
 この会談で、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろには、亀山社中は「海援隊(かいえんたい)」と改称します。
この海援隊は、約50人の隊員で結成しました。

 因(ちな)みに、武田鉄矢を中心として「母に捧げるバラード」や「贈る言葉」などのヒット曲を生んだフォークソングのグループ「海援隊」は、龍馬のこの組織から名前をとっています。

 4月には、伊予・大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海の備後国鞆の浦(広島県)沖で、紀州藩船「明光丸」と衝突し沈没してしまいます。
 この事故の談判で、龍馬は「万国公法」(国際法)を盾に一歩も譲らず、御三家の一つ紀州藩に対して、賠償金8万両以上の支払に同意させました。

 龍馬が、他の薩摩や長州の志士と違うのは、藩の利益を代弁せず「日本」という単位でものを考えていたことです。その結果、この頃の龍馬は、必ずしも「倒幕」ではなくなっていました。

 この年の6月に、龍馬が起草させた「船中八策」には、大政奉還や憲法制定、議会の設置、陸海軍創設、通貨政策など、明治政府の礎ともなる事項が入っています。

 中でも龍馬は、国内戦争を避け、平和理に「幕府から朝廷へ政権移譲」する大政奉還の実現に力を尽くします。
 土佐藩の後藤象二郎らと組み、慶応3年10月に、ついに「大政奉還」を実現します。(実際には同時に、「倒幕の密勅」が裏で出されたため、戊申戦争になってしまいます。)


 このブログの始めに、11月15日は龍馬の誕生日と紹介しましたが、実はこの日は龍馬の命日でもあります。

 慶応3(1867)年11月15日、数え33歳(満32歳)の誕生日に、坂本龍馬は、京都・河原町の近江屋で、同じ土佐出身の陸援隊隊長・中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。
 時刻は午後9時過ぎ、十津川郷士を名乗る数人に、頭などを切られ絶命します。(この時も、龍馬は懐に拳銃をもっていましたが、急襲で火を噴く間もありませんでした。)
 
 暗殺の犯人には諸説がありますが、幕府の見廻組だという説が有力です。
 「暗殺など、交通事故と同じだ。」という、司馬遼太郎さんの言葉に賛成し、ここでは暗殺犯人の話は、あまりしないことにします。

 幕末という日本の国難の時代に、天が「坂本龍馬」という英雄を地上に遣わし、事態収拾のメドが立った時に、役目を終えた龍馬を天が呼び戻した。
 そう信じたいですね。

<「薩長同盟」の文書と龍馬の朱色の裏書 (宮内庁所蔵)>


 
 
龍馬の物語の最後は、「龍馬の夢見た世界の海援隊」の話をします。

 このブログの中でも、龍馬の手紙をいくつか紹介しましたが、「龍馬の手紙」は最近の発見も含めると140通以上が残されています。

 私が学生の頃、ある博物館で「龍馬の手紙を見たい」とお願いすると、館員の方が展示ケースから取り出してくれて、「自分でコピーしていいよ。」と言って渡してくれました。
 龍馬の手紙を持たせてくれたのはとても嬉しかったのですが、「龍馬の貴重な手紙が、こんな扱いでいいのかな。」との疑問もあり、複雑な気持ちでした。

 平成12(2000)年、京都国立博物館所蔵の龍馬の手紙や遺品などが、国の「重要文化財」に指定されました。
 今、私の中では、もう龍馬の手紙に触れることもできないという寂しさと、「これほどの価値があるのだ」という誇らしさが交差しています。

 その「龍馬の手紙」の中でも、最晩年のものの一つに、「慶応3年11月7日」、つまり暗殺の8日前に書いた海援隊士・陸奥宗光(のちの外務大臣)あての手紙があります。
 この手紙の中で、大政奉還が成功したあとの龍馬は、「これからは世界の話をしよう」と言っています。

 この頃のエピソードを、おしまいに紹介します。

 坂本龍馬が、西郷隆盛たちに「新政府の要職の名簿(案)」を見せました。
 西郷はその名簿を見て驚きました。
 「坂本さん、君の名前が見当たらんが、忘れもしたか。」

 龍馬はニコッと笑って答えました。
 「僕は、役人にはならんつもりじゃ。」
 西郷は、驚いて問い直しました。
 「では坂本さんは、これから何をおやりなさる?」
 
 「そうじゃなあ。世界の海援隊でもやりますか。」
 その時の龍馬の瞳は、西郷よりもはるかに遠い水平線を見ているように見えたということです。

 事実、坂本龍馬のこの頃の夢は、北海道開拓や海外との貿易など、「世界の海援隊」に向いていました。
 因(ちな)みに、龍馬の死後、「海援隊」の船を生かして、世界貿易をしたのが、同じ高知県出身で大河ドラマ「龍馬伝」でも活躍した、三菱財閥創始者の岩崎弥太郎でした。


<坂本龍馬の和歌>

 又あうと おもう心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな


<my 短歌>

 龍馬ゆく 夢は世界の 海援隊  道なき空を 今も旅する

  


2015年11月14日土曜日

坂本龍馬生誕180年・竜馬の夢(1)~日本を洗濯する~ 

 「日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事にいたすべくとの神願にて候。」 これは、幕末の志士、坂本龍馬が文久3(1863)年6月に、高知にいる姉の乙女に書いた手紙の一節で、
 「日本を今一度、洗濯する」という言葉は、龍馬の名言として有名です。

 実は、11月15日は坂本龍馬の誕生日で、今年(2015年)でちょうど180年になります。
 そこで、生誕180年を記念して、魅力いっぱいの「幕末の英雄・坂本龍馬」について、2回に渡って紹介してみたいと思います。
 1回目は、「龍馬の生い立ち」と「青春時代」です。


 坂本龍馬のファンは、2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さんが演じるのを見て好きになった方と、司馬遼太郎さんの小説「竜馬がゆく」を読んで好きになった方とに、大別できるのではないかと思います。(注:りょうまの漢字は、本人は「龍馬」と書いています。「竜馬」は後世の略字ですが、司馬遼太郎さんはこの字を好んで使っています。)

 私は学生の頃、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んで、龍馬ファンになりました。
 あの時、寝食も惜しんで「竜馬がゆく」の文庫本8冊を、夢中で読破したのをとてもよく覚えています。

 龍馬の魅力は、いわゆる「神童」ではなく、寝小便をするいじめられっ子だった龍馬少年が、高学歴も高い身分も持たずに、「日本を洗濯する」ほどの英雄になった点だと思います。


 まず、「竜馬がゆく」から、名言をいくつか紹介します。

・「世に生を得るは事を成すにあり。」(第5巻)
・「どんなくだらぬ事でも死ねるという自信があってこそ、大事を成し遂げられるというものだ。
  業なかばで倒れても良い。その時は目標の方向に向かい、その姿勢で倒れよ。」
 (第6巻)

・「『・・・しかない』というものは世の中にはない。
 人よりも一尺高いところから物事を見れば、道は常に幾通りもある。」(第8巻)


・「人の一生というのは、たかだか五十年そこそこである。いったん志を抱けば、この志に向かって事が進捗するような手段のみをとり、いやしくも弱気を発しては いけない。
 たとえその目的が成就できなくても、その目的への道中で死ぬべきだ。
 生死は自然現象だからこれを計算に入れてはいけない。」
(第8巻)


  少し読んでいるだけでも、わくわくして来ませんが?
  これが、「竜馬がゆく」の魅力です。
  もちろん、この小説の中の言葉は、すべてが龍馬の言った言葉ではありません。龍馬の手紙をはじめ、幕末の志士たちの愛読書(「英将秘訣」など)や司馬遼太郎さんの心の言葉などが、ミックスされたものです。

 今回だけでは、「竜馬がゆく」の魅力を紹介しきれませんが、久しぶりに私ももう一度「竜馬がゆく」を読みたくなったので、いずれ、このブログの中で、「竜馬がゆく」の名言を何度かに分けて紹介したいと思っています。

<写真「龍馬の生まれた町記念館」(高知県高知市上町)>

 



 さて、坂本龍馬という歴史上の人物の話に戻ります。

 坂本龍馬(さかもとりょうま)は、天保6(1835)年11月15日に土佐の国(現在の高知県高知市)の身分の低い侍「郷士(ごうし)」の家の次男として生まれます。(兄1人、姉3人)
 坂本家は侍の身分は低くても、本家は豪商で、龍馬の坂本家も経済的には裕福でした。

 坂本龍馬の正式な名前は、「坂本龍馬直陰(なおかげ)」で、のちに「坂本龍馬直柔(なおなり)」と改名します。
 因みに、「陰」を「柔」に変えたのは、龍馬の好きだった「孟子」の「柔よく剛を制す」からではないのかと、私は思っています。

 龍馬は子供の頃、勉強が嫌いで私塾を退学になります。
 龍馬が11歳の時に、母「幸」が病死します。
 その後、一念発起して高知の剣術道場(日根野道場)へ入り、剣の道で頭角を現します。

 嘉永6(1853)年4月、龍馬18歳の時に江戸へ上り、北辰一刀流の「千葉定吉道場」へ入門し、めきめき剣術の腕を上げます。
 この千葉定吉の娘さな子は、龍馬に恋をして一生独身を通し、ついには墓石に「坂本龍馬の妻」と刻ませます。

 この江戸遊学で、長州・薩摩・水戸など全国の志士と交流したことと、この年の6月にペリーの黒船来航を江戸で体験したことが、龍馬の人生に大きな意味をもつことになります。

 安政元(1854)年、19歳の龍馬は一旦、土佐へ帰ります。この時に、アメリカへ漂流し帰国した「ジョン万次郎」に、直接話を聞いた経験をもつ画家・河田小龍から、外国の様子や海運の重要性を聞きます。

 安政2(1855)年、龍馬20歳の時に、父の八平が亡くなり兄の権平が坂本家を継承します。この後、龍馬は再び江戸へ剣術修行に出ます。

 2度目の江戸遊学で、再び「千葉道場」に入り、「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられ、塾頭も努めます。「長刀(なぎなた)」だけでなく、剣術の腕も確かだったようです。
 ここでも他藩の多くの志士たちと交流します。

 安政5(1858)年、23歳で高知に戻った龍馬は、北辰一刀流免許皆伝の剣術の使い手として、土佐の若者たちに一目置かれる存在となります。
 この頃、江戸では「安政の大獄」が起こり、幕府の開国政策に異議を唱えた長州の吉田松陰らが処刑されます。

 文久元(1861)年、龍馬の親友で親戚筋にあたる武市半平太が「土佐勤王党」を結成し、龍馬もメンバーになります。
 しかし、「土佐一藩の勤王」と、山内家の家臣である上士と土着(長曾我部系)の侍・郷士の対立などに、大海(江戸)を見てきた龍馬は失望し、高知での限界を感じます。
 
 後に書いた手紙(文久3(1863)年8月19日)の中で、龍馬は脱藩理由をこう言っています。
「土佐一国だけで学問をすれば、一国だけの論になる。(日本中を)行き来すれば、それなりの目が開かれる。天から与えられた才能を開かないかん。」

 そして、文久2(1862)年3月、27歳の坂本龍馬は土佐藩を脱藩します。
 江戸時代の「脱藩」は、現代で言う「国外逃亡」にあたり、死罪になることがある大罪です。
 そのリスクを超えた時に、初めて自由な考えをもつ、私たちが知っている「志士で浪人のフリーな坂本龍馬」が誕生するのです。

<写真 坂本龍馬の銅像と太平洋(高知県高知市桂浜)>




 この年の暮れ、龍馬は江戸で、アメリカ帰りで幕府軍艦奉行並の勝海舟に出会い、生涯の師と仰ぎます。
 翌文久3(1863)年には、勝海舟の「神戸海軍塾」に入塾し、操船技術と多くの仲間を得ます。

 この頃、姉・乙女に書いたのが、冒頭の「日本をせんたくする」という手紙です。
 この手紙では、単独で攘夷を実行した長州藩(山口県)が砲撃した外国船を、幕府が江戸で修復していることへの怒りをのべたあとに、このような幕府の姦吏を倒し「日本を今一度せんたくする」と言っています。

 同じ手紙の中で龍馬はこうも言っています。
 「どうせ浮世は三文五厘よ。ぶんと屁のなるほどやってみよ。」

 このあと、いよいよ龍馬は「歴史上の人物」となる偉業を成し遂げていきます。
 その話は、2回目(後半)にしたいと思います。



<坂本龍馬の和歌>

 浮き事を 独り明しの旅枕 磯打つ波も哀れとぞ聞く 


<龍馬の名言(龍馬の手紙より)>

  何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり。

2015年11月11日水曜日

高倉健さん1周忌 (2) 神エピソードと名言~風に吹かれて~

   2014 (平成26)年11月10日に亡くなられた、日本を代表する俳優・高倉健さんの1周忌に因んで、健さんの「神エピソードと名言」を紹介しながら健さんを偲ぶ企画の2回目(後半)です。

 今回は、高倉健さんが東映から独立し、数々の名作に出演、亡くなるまでの「神エピソードと名言」を紹介します。


 任侠映画の大スターになった高倉健さんですが、これで終わらなかったのが、高倉健さんのすごいところです。
 1976(昭和51)年、45歳の時に、「任侠映画以外の仕事もしたい。」という決意のもと、東映を退社しフリーになります。
 ここから、任侠映画だけでなく広く社会に認めらる「もう一つの映画俳優」・高倉健さんが生まれます。

 まず1976年に、以前紹介した「君よ憤怒の河を渡れ」に主演し、中国など国際的な人気を博します。
 さらに、翌1977(昭和52)年には、「八甲田山」と「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋二監督)に主演し、「第1回日本アカデミー賞」の最優秀主演男優賞を受賞します。(任侠映画では、映画賞に無縁でした。)

 このあと、生まれ変わった「俳優・健さん」の快進撃が始まります。
 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞の受賞対象になった作品だけに限って、紹介してみます。

 1981(昭和56)年の「第4回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞」では、  『動乱』と、『遥かなる山の呼び声』が受賞対象になっています。
 翌1982(昭和57)年の「第5回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞」は、 『駅 STATION』が受賞対象です。

 さらに、2000(平成12)年の「第23回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞」は、『鉄道員(ぽっぽや)』が受賞対象となっています。
 これで4回目の受賞となります。

 しかし、本当はあと2回、「日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞」にノミネートされていますが、「
若い人に」ということで辞退していますす、
 一つは、2001(平成13)年に製作された「ホタル」で、 もう一つは2012(平成24)年に製作され遺作となった「あなたへ」です。


<「幸福の黄色いハンカチ」のロケ地・炭鉱住宅(北海道夕張市)>


 
 




 この間の撮影には、多くの「神エピソード」と「名言」が伝えられていますので、その一部を紹介します。

 「幸福の黄色ハンカチ」(1977年)では、冒頭の出所してラーメンとカツ丼を食べるシーンで、迫真のうまそうに食べる演技をして、山田洋二監督に一発OKをもらいました。このシ-ンのために、二日間、何も食べなかったそうです。

 また「夜叉」(1985年)の撮影前には、初共演となるビートたけしさんを、雪が降る田舎の駅で夜中に出迎え、花束を渡したました。
 因みに、健さんは伝説のお笑い番組「オレたちひょうきん族」に出演を希望していたそうで、もしかすると、ビートたけしの『タケちゃんマン』の弟子として、「高倉健のケンちゃんマン」が実現していたかもしれませんね。(笑い)

 2006(平成18)年に現地で撮影した中国映画「単騎、千里を走る」の撮影が終わったとき、抱き合って泣く中国人スタッフの姿を見て、大きな衝撃を受け、「お金じゃない何かがあった。あれは何だったのか、とずっと考え仕事が出来なくなった。」そうで、以降6年間、映画出演もCM出演も断りました。

 「日本一ギャラの高い映画俳優」を目指した高倉健さんが、ギャラが上がった晩年、「お金ではない何か」に気づいたというのは、本当にいい話ですね。

 それでも2012(平成24)年に、「長年一緒に仕事をしてきた降旗康男監督と、もう一本やっておきたくて映画出演を決意しました。人生の大事なことに、気がつきました。」
という話をした高倉健さんは、遺作となる205本目の映画作品「あなたへ」の主演を引き受けます。

 この「あなたへ」の取材時、高倉健さんは「役者をやめようと思いましたか?」という質問に、次のように答えています。
 「そう思いましたね。いつまでも偉そうな顔をして高いギャラを取っているのは平等ではないな、と。僕は今、作品を選びながら出演できる。僕がいい役を取っちゃえば、若い人のチャンスを奪うことになりますからね。」

<写真 映画「あなたへ」のロケ地(長崎県平戸市)>




 そして2013(平成25)年、高倉健さんは「文化勲章」を受章します。

 同年11月3日、皇居で行われた「親授式」後の記者会見で高倉健さんは、こう語っています。
 「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました。今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」

 高倉健さんは、生涯205本の映画に出演しました。
 最後の作品は「あなたへ」でしたが、実は206本目の作品出演の準備をしていたそうです。
 その幻の映画のタイトルは「風に吹かれて」でした。

 高倉健さんの名言に、こんな言葉があります。
 「いい風に吹かれたいですよ。きつい風ばかりに吹かれていると、人に優しくなれないんです。待っていてもいい風は吹いてきません。旅をしないと。
    人生っていうのは、人と人の出会い。一生の間にどんな人と出会えるかで、人生は決まるんじゃないですか。」
 
 2014(平成26)年11月10日、そんな高倉健さんが、東京都内の病院で悪性リンパ種のために亡くなりました。享年83歳でした。
 
 ちなみに、この11月10日は、2009年に森繁久彌さんが96歳で亡くなり、2012年には森光子さんが92歳で亡くなった「名優死亡」の特異と言われています。
 
 高倉健さんの死亡は、2014年11月18日に高倉プロモーションから発表され、その死亡を告げる文書には、「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉が添えられていました。

 心より、ご冥福をお祈りしたいと思います。
 
<一句>
 
 名優が 風に吹かれて 秋に逝く
 
 
 

2015年11月9日月曜日

高倉健さん1周忌 (1)~生い立ち・任侠スター・結婚と別れ~

   2014(平成26)年11月10日に、日本を代表する俳優・高倉健さんが「悪性リンパ腫」のため亡くなられて、1年になります。

 今回から2回に渡って、「神・俳優 高倉健」さんの1周忌に因(ちな)んで、健さんの「神エピソードと名言」を紹介しながら、高倉健さんを偲びたいと思います。
 1回目は、高倉健さんの生い立ちと江利チエミさんとの結婚、任侠映画のスターになるまでを紹介します。

 高倉健さんは、日本屈指の俳優でありながら人への思いやりを忘れず、決して偉ぶらず、共演者はもちろん、エキストラやスタッフにまで丁寧に挨拶されました。
 また、撮影中はイスに座らず、極寒の北海道の撮影(1999年の「鉄道員(ぽっぽや)」)でも焚き火にあたらなかったなど、自分を厳しく律するエピソードも伝えられています。

 まず健さんが、埼玉県川越市の少年刑務所を慰問で訪れた時の名言を紹介します。
「あなたたちの心の中に、だれか一人、あの人に褒められたいと思う人がいるでしょう。
 その人が喜んでくれるには何をすればいいのか。
 そのことを考えて、一日も早く更生してください。」
と受刑者に語りかけました。

 高倉健(たかくら けん)さんは、本名は小田剛一(おだ ごういち)で、1931(昭和6)年2月16日に、福岡県の遠賀川流域の炭鉱町・中間市に生まれました。
 お父さんは元海軍軍人で港運会社に勤務し、お母さんは教師で、厳しい教育を受けました。

<高倉健さんの故郷、福岡県中間市のボタ山>



 高倉健さんは、福岡県立東筑高等学校商業科を経て、明治大学商学部商学科に入学します。
 在学中は、中学校でボクシング部、高校でESS(英会話部)に所属し、大学では相撲部のマネージャーを務めました。

 明治大学を卒業した時は、思ったような就職先がなく、一旦、福岡へ帰郷します。

 しかし、「このままでは埋もれてしまう。」と再上京、1955(昭和30)年に、芸能プロのマネージャーになるために喫茶店で面接を受けます。
 この時、たまたま居合わせていた「東映東京撮影所」所長で映画プロデューサーのマキノ光雄さんにスカウトされて、東映へ俳優として入社します。

  24歳で「俳優座養成所」に預けられた健さんですが、何をやってもサマにならず、教室中が笑い転げるほどでした。
 指導教師には、「授業にならないからあなたは見学してなさい。俳優になるのはあきらめたほうがいい。」と言われたそうです。

 健さんは、当時のことをこう振り返っています。
 「屈辱ですよね。僕の俳優人生は、このコンプレックスから始まったんです。その思いはずっと続いてて、いまだに役作りができませんね。」

 翌年、1956(昭和31)年に、映画「電光空手打ち」でいきなり主演デビューしますが、売れませんでした。
 同じ年に日活から石原裕次郎がデビューして、国民的人気スターになったのと対照的に、鳴かず飛ばずの日々が続きました。

 高給取りの石坂裕次郎さんを見て健さんは、「同じ同期の俳優なのに、どうしてこんなに違うんだろうってショックでした。日本一高いギャラをとれる俳優になりたいと思った。」そうです。

 1964(昭和39)年から「日本侠客伝シリーズ」が始まりやっと売れ始め、1965(昭和40)年からは「網走番外地」シリーズや「昭和残侠伝シリーズ」などにも主演し、東映の看板スターとなりました。

 任侠映画では、こんなエピソードが語られています。
 高倉健さんが1973(昭和48)年に主演し大ヒットした「山口組三代目」のモデルで、日本の暴力団の頂点を極めた田岡一雄山口組三代目組長(1913~1983年、徳島県出身)が、高倉健さんの映画ロケを見た後の車の中で、「わしの役が高倉健でよかった。あいつは男の中の男だ。」と満足そうに話したそうです。
 男が男に惚れる「健さん」ファンは、業界を超えて広がっていた逸話だと思います。


 プライベートでは、1959(昭和34)年に、当時、美空ひばりさん、雪村いづみさんと並ぶ「3人娘」の一人として絶大な人気のあった江利チエミさん(1937年~1982年 東京都台東区出身)と結婚します。

 交際中には、仮病で入院してチエミさんに見舞いに来てもらったり、「10分だけでも会いたい」と新幹線のない時代に、ロケ地の静岡から大阪へ夜行列車で通ったりする一途さを見せたそうです。

 結婚後もチエミさんと仲がよく、1962(昭和37)年には待望の子宝を授かったものの、流産してしまいました。
 さらに、1970(昭和45)年には自宅が全焼するという不運も重なり、チエミさんの異父姉の虚言や使い込みで、チエミさんに迷惑がかかるのを避けるために、1971(昭和46)年に離婚しました。

 しかし、健さんはチエミさんを愛し、2度と結婚することはありませんでした。
 そればかりか、1982(昭和57)年2月13日に、江利チエミさんが45歳で病死すると、お墓から200mの所に2億円の豪邸を建て、命日には必ず墓参したそうです。

 「自分、不器用ですから」のCM通りの愛だったようで、すごく好感がもてますね。

<高倉健さんが毎年墓参した江利チエミ(本名 久保智恵美)さんのお墓>




 任侠映画の大スターになった高倉健さんですが、これで終わらなかったのが、高倉健さんのすごいところです。
 1976(昭和51)年、45歳の時に、「任侠映画以外の仕事もしたい。」という決意のもと、東映を退社しフリーになります。
 ここから、任侠映画だけでなく広く社会に認めらる「もう一つの映画俳優」・高倉健さんが生まれます。


<一句>
 夢チエミ  ぼくはフリーじゃ  風になる

2015年11月6日金曜日

2015年「今年の漢字」を大予想(2)~対抗は偽、大本命は?~

 今回は、2015年の「今年の漢字」大予想の2回目(後半)です。
 前回、有力候補として「節」と「婚」を紹介しましたが、今回は本命と対抗であると個人的に思っている二つの漢字を紹介します。

 まず一つ目は、私が今年の漢字の対抗と考えている「偽」です。
 偽を、辞書でひくと、「が、ぎ、にせ、いつわ(る)」と出てきます。
 文字通り、「にせる」「本物でない」、偽物の意味です。

  この文字を見て、思い出す今年の出来事と言えば、「2020年東京オリンピック エンブレム」の偽物疑惑です。
  デザイナーの佐野研二郎さんの「エンブレム」が、ネットで偽物と指摘されたのは、すごく残念でした。
 「国立競技場」も、以前のものを残して改装してくれたら、よかったですね。

  もう一つ、今年の「偽」のニュースで、現在進行形なのが「旭化成建材の杭打ちデータ偽装事件」です。
 学校などの公共施設や、住んでいるマンションが偽装の対象だけに、そのショックと怒りは止まるところを知りません。

 さらに、「偽」が「にせる」の意味があることを考えると、10月に取り上げた「ハロウィン」の仮装の以上な盛り上がりも、「偽」なのかも知れません。(ちなみに、「偽」は、食品偽装や年金記録問題があった2007年に1度、選ばれています。)


<東京オリンピック2020年 疑惑のエンブレム>


 
 ここで、「今年の漢字」の歴史を紹介します。

 「今年の漢字」は、1995(平成7)年、阪神・淡路大震災の年に始まりまりました。
 この年の漢字は「震」で、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などの、自然・社会の「震」が漢字として選ばれました。

 その後も、アメリカ同時多発事件があった2001(平成13)年の「戦」、新潟県中越地震や台風の連続上陸があった2004(平成16)年の「災」をはじめ、「倒」、「毒」、「変」など、全体的にはネガティブなイメージの漢字が、多く選ばれています。

 そんな中、私が「今年の漢字」で一番感動したのは、2011(平成23)年です。
 2011年は、2万人近い犠牲者が出た「東日本大震災」が発災して、日本中がどん底に打ちのめされた年でした。
 ところが、この年の漢字に選ばれたのは「絆(きずな)」でした。

  「今年の漢字」が始まって以来、最も大きな災害に見舞われた2011年の漢字が、「震」や「災」、「津(波)」ではなく、最もポジティブな、助け合うという意味の「絆」であったことは、日本の誇りだと思っています。
  しかも、この年の投票数は49万6997票で過去最高でした。そのうち、6万1453人が「絆」に投票したというのは、すごいことだと思います。

 もう一つ、「今年の漢字」のすごいところは、日本から、中国、台湾、シンガポール、マレーシアなどのアジアの国々に広まっているところです。

<2011年の「今年の漢字」の発表風景>


 後半は、私が「本命」だと思う「2015年 今年の漢字」を紹介します。

 それは、「安」です。
 辞書では、「アン、やすい、いずくに、いずくんぞ」などの読みで、安全、安心、公安、治安などの意味があります。

 「安」を本命視する一番の理由は、「安保関連法制」の成立と、それに反対するデモの広がりです。
 憲法学者の大半が「憲法違反の疑いがある」と指摘し、集団的自衛権を認めたこの法律の成立と、それに反対する運動の盛り上がりが全国的・前世代的にあったのは、21世紀日本の大きな岐路になる出来事だと思っています。

 他にも、「安」を押す理由はあります。
 日本のトップとして、積極外交を展開している安倍晋三首相の頭文字の「安」、原子力発電所の再稼働を決めた「原子力安全委員会」の「安」でもあります。

 最後にもう一つ、お笑い界でも「安」が活躍しました。

 そう、「とにかく明るい安村」の頭の文字も、「安」です。
 そして、例の決めゼリフ、「安心してください。はいてますよ。」の最初の言葉も、もちろん「安」です。


 「今年の漢字」の私の予想を競馬風にまとめると、「◎安、〇偽、△婚、×節」です。
 この中に、今年の漢字は入っているのでしょうか?

 「安心してください。(今年の漢字が)入ってますよ?(笑)」

 (「今年の漢字」の応募はこちらです→ http://www.kanken.or.jp/kanji2015/ )


<一句>
 節目婚  偽装じゃなければ  安心婚
 

2015年11月4日水曜日

2015年「今年の漢字」を大予想(1)~節、婚、それとも?~

 2015(平成27)年も11月になり、そろそろ「今年の漢字」が気になり始めましたね。(11月1日から募集が始まっています。)
 そこで、今回から2回に渡って、2015年の「今年の漢字」を、勝手に予想してみたいと思います。

  まず、今年の初めの時点で、多くの人はどんな漢字を予想していたのか調べてみましょう。
 そこで、2015年1月に、青山ハッピー研究所が調査した「今年(2015年)の日本を漢字一文字で表すと」というアンケートの結果を見てみましょう。

・1位 「上」
・2位 「変」
・3位 「明」

 1位の「上」は、給料(所得)や株価が上昇する期待と、物価上昇を危惧する声が半々で、他に日本自体が上向きになってほしい、との願いもあったようです。
 実際には、物価は上昇しましたが、給料(所得)はどうでしょうね?

 2位の「変」は、良きにつけ悪しきにつけ、変化を予想する人が多かったようです。日本は、一つの大きな曲がり角に立っているように思えますが、安保法制や異常気象の変に代表されるように、いい意味の「変」ではないような気がします。

 3位の「明」は、2015年の日本にポジティブな出来事があることを、期待した結果でしょうか。
 明るい出来事を探すと、女子サッカーやラグビー、体操などのスポーツ界と、結婚ブームの芸能界などが挙げられますが、みなさんの周りでは「明」はありましたか?


 ここからは10ヶ月が終わった時点で、「今年の日本を象徴する漢字」は何なのかを考えて、予想してみましょう。

 まず、最初の「今年の漢字」候補は、「節」です。

 「節(せつ、ふし、せち)」には、国語辞典によると、「竹や樹木などの一定区間ごとに膨らんでいる場所」などが転じて、あることがらの区切りという意味があるそうです。

  今年は、 戦後70年、阪神大震災から20年という「節目の年」です。
  また、安保法案成立やTPPの大筋合意など、大きな節目にもなった年だと思います。
   これが未来から見て、よい意味での「節」だといいのですが。
  あまり、明るい節目ではないような、気がしています。

   ただ、「節」には、自分の信念を守り続けること(節操を守る)という意味もあるそうです。日本が、戦後の平和の信念を守る「節」になってほしいものです。


今年の漢字を発表している「清水寺」(京都府京都市東山区)>



 ここで、「今年の漢字」の仕組みを紹介します。

 「今年の漢字」は、京都の清水寺で発表しているので、清水寺で決めているイメージがありますが、実は、「財団法人日本漢字能力検定協会」が主催しています。

 「その年をイメージする漢字一字」の公募を日本全国を対象に行い、その中で最も応募数の多かった漢字を、その年の世相を表す漢字として、毎年12月に清水寺で、森清範貫主(住職 1940年~ 京都出身)が、毛筆で紙に書いて発表しています。

 ちなみに、今年の発表は12月15日で、縦1.5m、横1.3mの半紙に書かれる予定です。
 投票は、11月1日~12月8日(必着)の間、インターネット、はがき、応募箱(全国500か所の図書館・本屋に設置)で受け付けています。(詳しくは http://www.kanken.or.jp/kanji2015/ 参照)

<2014年の「今年の漢字」発表風景>



 「2015年 今年の漢字」の私の2番目の候補は、「婚」です。
 「婚(こん)」は、国語辞典では「夫婦の縁組をすること」と書かれています。
 
 長年独身だった人気歌手の福山雅治さんが、女優の吹石一恵さんとゴールインしたのをはじめ、女優の堀北真希さんと俳優の山本耕史さん、TOKIOの国分太一さん、千原ジュニアさんなど、芸能界は結婚ラッシュに沸いています。
 これが日本中に広まれば、少子化対策になって、嬉しいのですが・・・・・?

 「婚」以外にも、結婚の「結」というのも候補ですが、「結婚(配偶関係の締結)」と「婚姻(配偶関係の締結+継続)」のどちらにも使われている「婚」の方がいいと、個人的には思っています。

 因(ちな)みに、許婚は「いいなずけ」と読み、これなら藤原紀香さんと片岡愛之助さんや、北川景子さんとDAIGOも、入るのかなと思います。(無理やり入れる?<笑>)


 ここで、大穴の漢字を紹介します。
 2003(平成15)年には、タイガ-スの優勝で「虎」が今年の漢字に選ばれた例があります。
 そこで、スポーツ系の「今年の漢字」を考えてみます。

 まず、ラグビーワールドカップで五郎丸などの日本代表が活躍したことにちなんで「闘」(ラグビーは和名で”闘球”です)、プロ野球セリーグを制したヤクルトスワローズの「燕(つばめ)」や、日本シリーズ2連覇のソフトバンクホークスの「鷹(たか)」なども、候補としてはありかなと思います。

 最後に、大穴中の大穴で、「百」はどうでしょうか。

 今年4月に100歳の長岡三重子さんが、水泳1500m自由形で、100歳では世界で初めて完泳しました。
 また9月には、105歳の宮崎秀吉さんが、陸上100mで完走し、ギネス世界新記録を樹立しました。
 さらに、2015年の日本の百歳以上が初めて6万人を突破しました。

 こんな超高齢化パワーに敬意を表して、「百」はどうでしょう??

 次回は、「2015年の今年の漢字」の後編の予定です。
 過去の「今年の漢字」や、本命・対抗と思われる「あの漢字やあの漢字」の話などを紹介する予定です。


<一句>
  漢字決め 幹事が活躍  年の暮れ  

2015年11月2日月曜日

名曲紹介「パンプキン・パイとシナモン・ティー」(2)~人気女性デュオ「あみん」を産んだ奇跡の歌~

  今回は、さだまさしさんの隠れた名曲「パンブキン・パイとシナモン・ティー」の紹介の2回目(後半)です。
 
 「パンプキン・パイとシナモン・ティー」は、シングルでは発売されてなく、大ヒットもしていません。
 この曲は、さだまさしさんが、1979年に出したアルバム「夢供養」の中の1曲として納められています。

 ところが、この歌の中のコーヒーベーカリー「安眠(あみん)」から名前をもらった女性ディオが、
後に大ヒット曲を出しています。

 そうなんです。
 1982(昭和57)年に「待つわ」が100万枚を超える大ヒットとなった、岡村孝子さんと加藤晴子さんの女性ディオ「あみん」は、この曲の店の名前「安眠(あみん)」から名前をとったのです。

 「パンプキン・パイとシナモン・ティー」に恋を叶える魔法があるかどうかはわかりませんが、この曲には、人気ディオ「あみん」と、大ヒット曲を生み出す魔法の力があったのです。

 岡村孝子(1962年~ 愛知県出身)さんと言えば、「夢をあきらめないで」(1987年)などの名曲を作っていますが、それもこれも、もとはと言えば、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」の歌の魔法のおかげかも、知れませんね。

 この曲に出てくる「安眠(あみん)」という店は実在しませんが、マスターは、好きな彼女にプロポーズできないでいた「さだまさしさんのスタッフ」がモデルだったそうです。
 また、さださんが経営していた喫茶店「さすらいの自由飛行館」には、この曲にちなんだ「あみんセット」がありました。

 「♪パンプキン・パイとシナモン・ティーに
 薔薇の形の角砂糖 二つ
 シナモンの枝で ガラスに三度 恋しい人の名を書けば
 愛が叶えられると 娘等は信じてる♪」

<薔薇の形の角砂糖>

 
 


 次に。さだまさしさんが2004(平成16)年に、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」の続編(アンダーソング?)として書いた曲の一部を紹介します。
 曲名は「ローズ・パイ」です。


♪「ローズ・パイ」 (歌・作詞・作曲 さだまさし)

薔薇の形の角砂糖が もうなかなか手に入らないから
魔法が使えないというので 人気薄でも
店をやめようにも やめられない
変な歌で有名になって
2丁目の交差点から17軒目に
こだわる客に 参ってる

(中略)

そうさ 青春なんてそんなもの
ホントは恰好悪くて情けなくって金も無くって
それで良いのだ
さうさ 若い二人の恋はローズ・パイ
生きることの不安から えっちな悩み
まじめな恋や夢を抱きしめ ♪

<シナモンティー>
 



 私は、時間がある朝は、時々、通勤途中にコンビニへ寄って、「紅茶」にシナモンパウダーを入れて、シナモンティーとして飲みます。
 実は、この習慣は、さだまさしさんの「楽しくも優しい曲」に憧れて、シナモンの魔法を信じてやっています。
 
 最後に、シナモンの魔法が、みんなに幸せを連れてくれることを祈って、「あみん」からソロになった岡村孝子さんの名曲「夢をあきらめないで」の一部を紹介して、2015年11月のブログを始めたいと思います。


♪「夢をあきらめないで」(作詞・作曲・歌 岡村孝子)

(前略)

いつかは皆旅立つ
それぞれの道を歩いていく

あなたの夢をあきらめないで
熱く生きる瞳が好きだわ
負けないように 悔やまぬように
あなたらしく 輝いてね ♪


 今がどんなに困難で苦しくても、「シナモン・ティー」を飲んで、夢をあきらめないでがんばりましょう。あなたも私も、お互いに。

<一句>
 シナモンに 願いをかける 白い秋