2016年2月20日土曜日

さる年の話3「申年の歴史(1901~1968年)」~日光の3猿と4匹目~

 2016(平成28)年は、「申(さる)年」です。
 これまで2回、「申年の話」をブログに上げて、最近3回(1980年、1992年、2004年)の申年の出来事などを紹介してきました。

 「申年の話」の3回目は、20世紀の残りの申年、「1908年~1968年の申年の歴史」を紹介していきたいと思います。

 まず、20世紀最初の申年、1908(明治41)年は、シベリアのツングースカに隕石が落ち、巨大爆発が起こっています。
 この年、ソニー創業者の井深大(4月11日)さんが生まれています。

 次に、1920(大正9)年は、第1次世界大戦後の国際秩序を構築するため「国際連盟」ができ、日本も加盟しています。
 また第1回箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)が開催され、初めての「国勢調査」も実施されています。
  この年生まれた有名人には、サザエさんの作者・長谷川町子さん(1月30日)やプロ野球で巨人を九連覇に導いた川上哲治さん(3月23日)がいます。

 続いて1932(昭和7)年は、満州国が建国を宣言し、「五・一五事件」で犬養毅首相が暗殺されました。ドイツの総選挙では、ヒットラー率いるナチスが圧勝し、戦争の足音が聞こえてくるような情勢となりました。
 この年生まれた有名人には、京セラ創業者の稲森和夫(1月30日)さんや、作家で都知事になった石原慎太郎(9月30日)さんらがいます。

 1944(昭和19)年は、「連合軍のノルマンディー上陸作戦成功」や「日本軍のインパール作戦失敗やマリアナ沖海戦での敗北」など、ドイツや日本の敗戦が濃厚になり、国内では疎開が行わました。
 大きな自然災害も発生し、6月に北海道で大噴火が起きて「昭和新山」ができ、12月にはM7.9の「東南海地震」が起き、死者・行方不明1223名を出しました。
 この年生まれた有名人には、草野仁(2月24日)、久米浩弘(7月14日)の両アナウンサーや、「スター・ウォーズ」などを撮ったジョージ・ルーカス監督(5月14日)などがいます。

<1944年の大噴火でできた昭和新山(北海道)>



 続いて1956(昭和31)年は、日本が「国際連合」に加盟した年で、「もはや戦後ではない」と言われました。
 また、石原慎太郎の小説を原作とした日活映画『太陽の季節』が公開され、慎太郎の弟の石原裕次郎が俳優デビューし、一躍人気者になり、「太陽族」「シンタロー刈り」などの言葉が流行しました。
 この年、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市の5市が初の「政令指定都市」となりました。

 1956年に最もヒットした曲は、曽根史郎さんの「若いお巡りさん」、最もヒットした映画は、松田定次監督の「任侠清水港」(興業収入3億5000万円)、ベストセラーには、社会現象にもなった石原慎太郎の「太陽の季節」でした。
 この年生まれの有名人には、サザンオールスターズの桑田佳祐さん(2月26日)や長淵剛さん(9月7日)、映画俳優のトム・ハンクスさん(7月9日)らがいます。

 最後に、48年前の申年、1968(昭和43)年の出来事を紹介します。
 1968年は「小笠原諸島」が本土に返還され、日本のGNPがアメリカについで、世界第2位になりました。
 「三億円強奪事件」もこの年です。

 また、川端康成さんが「ノーベル文学書」を受賞しました。
 この頃は「70年安保闘争」という学生運動が盛んで、世相では「巨人(プロ野球・この年で4年連続日本一)、大鵬(大相撲)、卵焼き」という、子供・女性の好きな3つのものが話題になりました。
 海外では、「べトナム戦争(アメリカ対北ベトナム)」が泥沼の戦闘を繰り広げ(2月の旧正月にテト攻勢)、アメリカでは4月4日に、「I have a dream.」の名言で有名な「キング牧師」が暗殺されました。

 1968年の流行語としては、「大きいことはいいことだ」や「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」などのCMから流行ったもののほか、「ゲバ(権力に対する実力闘争)」、「五月病」、「ハレンチ」などがありました。

 1968年に最もヒットした曲は、黛じゅんさんの「天使の誘惑」(46万枚)、最もヒットした映画は、稲垣浩監督の「風林火山」(興業収入7億円)、大河ドラマにもなった司馬遼太郎さんの小説「竜馬がゆく」が発表され、ベストセラーになりました。
 また、「少年ジャンプ」が創刊され、テレビアニメとして「ゲゲゲの鬼太郎」や「巨人の星」が放送されました。
 この 年生まれの有名人としては、歌姫セリーヌ・ディオン(3月30日)さんや元大リーガーの野茂英雄(8月3日)さんらがいます。


<日光東照宮の三猿>



  おしまいは、日光東照宮の「三猿(さんざる、さんえん)」の話です。

 世界遺産の日光東照宮には、神馬をつなぐ「神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる)」という建物【重要文化財】があって、 3匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している彫り物があります。 有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿です。

 これは孔子の言葉を集めた『論語』に、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」(礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれ、礼にあらざれば言うなかれ、礼にあらざればおこなうなかれ)という一節があることからきています。

 つまり、まだ経験が少なく免疫のない子供たちや妊婦さんに、悪いものを、見せたり、聞かしたり、言ったりしてはいけないという、教えです。

   この三猿の教えは、日本だけでなく、中国、インド、エジプト、そして欧米にも伝えられています。
 インドのマハトマ・ガンジーが、いつも三猿を近くにおいていたのは、有名です。

「ちょっと待った、「論語」にはしてはいけないことが、4つあるのでは?」
 そう、気づいたあなたはさすがです。

 実際、 「見ざる、聞かざる、言わざる」の次に、「行わざる」あるいは「しざる」という4匹目のさるが、股間を押さえている人形も、アジアにはあります。

<四猿の置物>



 ただ、しざるは「死」に通じるとか、下品な4匹目のサルは、「神君・徳川家康公」を祭る日光東照宮にはふさわしくないので、サルは3匹になったそうです。

 3猿の話も、深いですね。



<一句>

  さる年の 株も気温も  乱高下

2016年2月14日日曜日

世界に一つだけのSMAP(2)「夜空ノムコウに見えるもの?」

  「世界に一つだけのSMAP」の2回目は、関係者のプロフィールやエピソードを紹介したいと思います。

 まず「SMAP」について紹介します。
 SMAPは、光GENJIの『ガラスの十代』のバックでスケートボードをやっていたグループ「スケートボーイズ」の中から選抜され、1988(昭和63)年に結成された男性アイドルグループです。

 「SMAP」とは、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川さんが、スケートボーイズのキャッチコピー「Sports Music Assemble People」の頭文字から命名したもので、「スポーツや音楽のために集められた人々」という意味です。

  SMAPは、もともと次の6人でした。
・ 中居正広(なかい まさひろ、1972年~、神奈川県出身)
・ 木村拓哉(きむら たくや、1972年~  、東京都出身)
  • 稲垣吾郎(いながき ごろう、1973年~  、東京都出身)
  • 草彅剛(くさなぎ つよし、1974年~、愛媛県出身)
  • 香取慎吾(かとり しんご、1977年~、神奈川県出身)
  • ・  森且行(もり かつゆき、1974年~ 、東京都出身)

     1991(平成3)年1月1日に、「日本武道館」で最初のコンサートを開催し、同年9月9日、「Can't Stop!! -LOVING-」でCDデビューしました。(ここから数えて、今年で25周年になります。)
     この年、『NHK紅白歌合戦』に初出場しました。
     
     1994(平成6)年、「Hey Hey おおきに毎度あり」で、初のオリコン1位を獲得しました。
     1995(平成7)年には、日本テレビの『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の番組パーソナリティーを務めました。

     1996(平成8)年から、フジテレビ系『SMAP×SMAP』が放送が開始され、現在に至っています。    
     この年、森且行さんが幼い頃からの夢であった「オートレース選手」に転身するため、SMAPを脱退しジャニーズ事務所も退社しました。

     1998(平成10)年発売の「夜空ノムコウ」が初のミリオンヒットを記録し、2000(平成12)年発売の「らいおんハート」もミリオンヒットを記録しました。

     2003(平成15)年、「世界に一つだけの花」がダブルミリオン(258万枚)を記録し、。『第54回NHK紅白歌合戦』で、グループとして史上初、ポップス歌手としては25年ぶりに大トリを務めました。

     その後も、歌手・バラエティ番組・ドラマ・MCなどで、メンバー全員、あるいは個々が活躍して、平成を代表する男性アイドルグループになりました。

    <写真 SMAPが最初にコンサートを開催した日本武道館>



     次に「SMAP」が所属する「ジャニーズ事務所」の創始者で、社長の「喜多川擴(ジャニー喜多川)」さんについて、紹介します。

     ジャニー喜多川さんは、本名「ジョン・ヒロム・キタガワ(John Hiromu Kitagawa)」さんで、漢字表記は「喜多川 擴(きたがわ ひろむ)」さんです。

     1931(昭和6年)、アメリカ・ロサンゼルス市生まれの84歳 で、日本人の実業家・芸能プロモーター・音楽プロデューサーです。

     父親は高野山アメリカ別院の僧侶で、アメリカで生まれ、アメリカの高校を出ています。

     1952(昭和27)年に来日し、。アメリカ大使館に陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員(通訳の助手)として勤務します。

     勤務の傍ら。上智大学国際部(現在の国際教養学部)に進学し卒業します。
     上智大学在学中の1955(昭和30)年に、バンドを結成し芸能界入りします。

     1960年頃、ジャニー喜多川さんは、自分の住んでいた東京・代々木の占領アメリカ軍宿舎「ワシントンハイツ」で、近所の少年たち約30名を集めた少年野球チームのコーチをしていました。
     そのチーム名に、本人のニックネーム「ジャニー(Johnny)」からとって、「ジャニーズ」と名付けました。

     1962(昭和37)年、このチームのメンバーの中から代々木中学校に通う4名を選抜し、最初のグループ「ジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)」を結成し、ジャニーズ事務所を立ち上げました。

     ジュニーズ事務所には、最初は、女性タレントもいましたが、現在は男性だけで、80名あまりが所属しています。

     かつては、フォーリーブス・郷ひろみ・たのきんトリオ・シブがき隊・少年隊・光GENJIらが活躍し、現在は、SMAP、TOKIO。V6。KinKi Kids、嵐など、錚々たる男性アイドルが所属しています。
     子供はいないと、言われています。


    <ジャニー喜多川さんの母校 上智大学>



     SMAPの元マネジャーの飯島三智(いいじま・みち)」さんと対立していた親子のうち、お母さんは、ジャニー喜多川さんの姉のメリー 喜多川(本名:藤島メリー泰子)さんです。
     1926(昭和元)年、アメリカ・ロサンゼル市で生まれ、現在はジャニーズ事務所副社長をしています。

     1950年代、四谷三丁目にカウンターバー「スポット」を開業し、このバーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔さんと結婚し、一女を設けました。

     この女の子が、藤島ジュリー景子(ジャニーズ事務所副社長)さんです。
     ジャニー喜多川さんが「やさしい」のに対し、メリー喜多川さんは「厳しい」と言われています。
     

     藤島ジュリー景子さんは、1966年生まれで、上智大学比較文化学部を卒業しています。
     子供の頃は、女優として活躍し、「3年B組金八先生」などに出演しています。

     現在は、ジャニーズ事務所の副社長であるとともに、「嵐」、「TOKIO」、「関ジャニ∞」などのマネージャーも努めています。
      さらに、今回の騒動で、SMAPも担当することになりました。


      「メリー喜多川さん、藤島ジュリー景子さん、親子」と対立し、「SMAPの乱」の責任をとって、2016年1月にジャニーズ事務所を退社したのが、SMAP育ての親ともいえる元マネジャーの
    飯島三智(いいじまみち 1957年~)さんです。

     大学卒業時に、音楽プロデューサーの酒井政利氏の紹介で、ジャニーズ事務所に入社、最初は経理やファンクラブの仕事をしていました。

     売れなかったSMAPのマネージャーになると、メキメキ頭角を現し、SMAPを日本を代表するアイドルグループにまで育てあげました。

     当初、木村拓哉さんを除く4人は、彼女と一緒に、ジャニーズ事務所を退社し独立する意向をしめしていましたが、「SMAP解散・分裂」を避けるために、彼女だけが責任を取って、辞任しました。


     最近の報道を見て思うのは、芸能界の閉鎖性です。

     若手アイドルならともかくも、20年以上、トップアイドルとして活躍してきた「SMAP」でさえ、自由に移籍できない芸能界の労働環境って、どうなっているのでしょうね。

     SMAPだけでなく、「大河ドラマ」で3回も主役を務めた名優「石坂浩二」さんの声が「開運、なんでも鑑定団」(テレビ東京)のプロデューサとのいざこざで、2年間もカットされたり、国民的人気ドラマ「あまちゃん」の主役をはった能年玲奈さんが、事務所ともめて干されたり、常識では考えられないことばかりですね。

    <夜空ノムコウ>




     最後は、この歌の歌詞のように、「夜空ノムコウ」に新しい明日が待っていることを信じて、
    SMAPの大ヒット曲で中学の教科書にも掲載された「夜空ノムコウ」の歌詞を紹介して終わります。


    ♪「夜空ノムコウ」♪

    作詞:スガシカオ
    作曲:川村結花
    歌:SMAP


    あれから僕たちは 何かを信じて来れたかな
    夜空の向こうには 明日(アシタ)がもう待っている

    誰かの声に気付き 僕らは身をひそめた
    公園のフェンス越しに 夜の風が吹いた


    君が何か伝えようと 握り返したその手は
    僕の心のやらかい場所を 今でもまだ締め付ける

    あれから僕たちは 何かを信じて来れたかなぁ
    マドをそっと開けてみる 冬の風の匂いがした

    悲しみっていつかは 消えてしまうものなのかなぁ
    タメ息は少しだけ 白く残ってすぐ消えた


    歩き出す事さえも いちいち ためらうくせに
    つまらない常識など 潰せると思ってた

    君に話した言葉は どれだけ残っているの?
    僕の心の一番奥で  空回りし続ける

    あの頃の未来に 僕らは立っているのかなぁ
    すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ

    このまま どこまでも 日々は続いていくのかなぁ
    雲のない星空が マドの向こうに続いている

    あれから僕たちは 何かを信じて来れたかな
    夜空の向こうには もう明日(アス)が待っている



    <一句>

     負けないで 夜空ノムコウに  明日がある

    2016年2月12日金曜日

    さる年の話 2「申年の歴史(1992年、1980年)」~スノーモンキーとさよならの向こう側~

     2016(平成28)年は、申年です。
     そこで、「さる(申・猿)年の話」を、時に触れてしています。

     前回は、12年前の2004(平成16)年を紹介したので、2回目の今回は、「1992年と1980年の申年」の歴史を、遡(さかのぼ)りながら紹介します。


     まず、24年前、1992(平成4)年の「20世紀最後の申年」の出来事を見てみましょう。

     この年は、「国家公務員の週休2日制導入」や「公立学校の月1回土曜日休校」が始まり、本格的な週休2日制の時代がスタートしました。

     また、東海道新幹線に、初めて「のぞみ」が登場しました。
     経済では、「バブル経済が完全に崩壊」した年とも言えます。

     政治では、内閣総理大臣は自由民主党の宮沢喜一(みやざわきいち 1919年~2007年 東京都出身)氏でしたが、後に首相となる細川護煕(ほそかわもりひろ 1938年~ 東京都出身)氏が代表を務める「日本新党」が誕生した年でもあります。

     また、「佐川急便献金事件」で、自由民主党の金丸信元副総裁が逮捕されています。

     海外では、ユーゴスラビアが新連邦と4共和国に分離解体し、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」が発生しています。

     もう一つ、後世への影響で言えば、この年の6月に「PKO協力法」が成立し、9月には初めて自衛隊が海外(カンボジア)に派遣されました。

     芸能界では、1992年4月25日に、ロック歌手の尾崎豊(おざきゆたか、1965年~1992年、東京都出身)さんが、26歳の若さで突然死しました。

     また、バルセロナ五輪の水泳競技の女子200m平泳ぎで、14歳になったばかりの岩崎恭子(1978年~、静岡県出身)さんが金メダルを獲得し、「今まで生きてきた中で、一番、幸せです。」という名言を残しました。

     1992年の流行語大賞(「年間大賞」)はというと、百歳姉妹の「きんさん、ぎんさん」でした。
     また、金賞には、「ほめ殺し」、「複合不況」、「冬彦さん」、「宇宙授業」が選ばれました。

     1992年に最もヒットした曲は、米米クラブの「君がいるだけで」(276万枚)で、最もヒットした映画は宮崎俊監督の「紅の豚」(興業収入28億円)、テレビドラマでは「ずっとあなたが好きだった」(TBS 視聴率34.1%)が人気でした。

     1992年のヒット商品としては、「エアジョーダンVII(ナイキ・ジャパン)」、「Gショック(カシオ計算機)」、「グッドアップブラ(ワコール)」、「電子マネジメント手帳 PV-F1(シャープ)」などがあります。

     1992年生まれの有名人としては、ネイマール(2月5日 サッカー ブラジル)、松山秀樹(2月25日 ゴルフ 愛媛県)、指原莉乃(11月21日 AKB48→HKT48 大分県)、横山由依(12月8日 AKB48 京都府)などがいます。

    <写真 Gショック(1992年発売)> 

     



     次に36年前、1980(昭和55)年の申年の出来事を見てみましょう。
     2016年の現在から見ると、この年は「(バブル景気へと続く)日本の黄金の80年代」の始まりともいえる年だったと思います。

     日本の「自動車生産台数」が、アメリカを抜いて世界第1位になり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という、1979年に出されたアメリカ・ハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルさんの本がベストセラーになりました。

     ただし、この本のタイトルは「Jpan is No.1」なく、「Japan as  No.1」たのです。
     「日本がナンバーワン」ではなく、「ナンバーワンとしての日本」という意味でした。
     この頃が日本経済の頂点に向かう途中でしたが、結局、「本当の世界一(IS)」には、なれませんでしたね。

      政治では、自由民主党の大平正芳(おおひらまさよし 1910年~1980年 香川県出身) 首相が初の「衆参同時選挙」の公示後、選挙運動中に急死し、同じ自由民主党の鈴木善幸(すずきぜんこう 1911年~2004年 岩手県出身)内閣が発足しました。

      外国では、「イラン・イラク戦争」が勃発し、11月のアメリカ大統領選挙でロナルド・レーガン(共和党)候補が、現職のジミー・カーター大統領(民主党)を破りました。

      一方、任天堂が初の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し、原宿には「竹の子族」が出現しました。

     芸能界では、トップアイドルだった山口百恵(やまぐちももえ 1959年~ 東京都出身)さんが21歳で引退し、三浦友和さんと結婚しました。
     同じ年、松田聖子(まつだせいこ 1962年~ 福岡県出身)さんがデビューしているので、アイドルの主役交代の年だったのかも知れません。

     アメリカの芸能界では、1980年11月8日に、元ビートルズで日本にもファンが多く日本人を妻にもつジョン・レノン(1940年~1980年 イングランド出身)さんが暗殺されるという、ショッキングなニュースがありました。

     この年の流行語としては、漫才コンビ「ツービート」のビートたけしさんが言った「赤信号、みんなで渡ればこわくない。」や、松田聖子さんを表現した「ぶりっこ」などがありました。

     1980年に最もヒットした曲は、もんた&ブラザーズの「ダンシング・オールナイト」(156万枚)、最もヒットした映画は、アーヴィン・カーシュナー監督の「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」(興業収入32億円)、テレビドラマでは「3年B組金八先生」(TBS 試聴率39.9%)が人気でした。

     1980年のヒット商品としては、「ポカリスエット(大塚製薬)」、「ルービック・キューブ(ツクダオリジナル)」、「チョロQ(タカラ)」、「ウォッシュレット(東陶機器)」、「ソーラー電卓(東和サン電気)」などがあります。

     1980年生まれの有名人には、桐谷健太(2月4日 俳優 大坂)、ロナウジージョ(3月21日 サッカー ブラジル)、竹内結子(4月1日 女優 埼玉県)、広末涼子(7月18日 女優 高知県)、マルチナ・ヒンギス(9月30日 テニス スロヴァキア)、岡田准一(11月18日 V6・俳優 大阪府)などがいます。

     まとめると、日本経済の黄金時代が始まったのが1980年の申年で、その後のバブルが完全にはじけたのが、1992年の申年ということになります。
     「サル年は、節目の年」いうのは、当たっていそうですね。

    <写真 ベストセラー本「Japan as No.1」>

     


     おしまいに、海外で人気の「スノーモンキー」についてのお話をします。

     「スノーモンキー(Snow Monkey)」は、日本ザルのうち、北の地方に住み、温泉に入るものを言い外国人には非常に人気の高いサルです。

     最も有名なスノーモンキーの生息地が、「地獄谷野猿公苑(じごくだにやえんこうえん)」(長野県下高井郡山ノ内町)で、毎年、10万人の観光客が訪れますが、その7割が外国人と言われています。

     温泉に入るサルのことを、外国人が「スノーモンキー」と呼んで人気になったのは、1970(昭和45)年に、アメリカの有名な写真雑誌『LIFE』の表紙で、「Snow Monkey of Japan」と紹介されたことがきっかけだと言われています。

     標高850m、積雪は1mを越え、厳冬期には、最低気温が-10度を下回ることもある「地獄谷野猿公苑」には、縦4m・横10mの「おサルさん専用の露店風呂」があり、50~60頭のサルが温泉に入っています。

      日本では、ニホンザルは珍しくなく、有害獣でさえありますが、「スノーモンキー」は、世界中の人気者です。
      なぜ、こんなに「スノーモンキー」が人気なのか、不思議ですね。
      外国人旅行者の感想を少し紹介します。

    「 日本旅行のハイライトは、スノーモンキーでした。
      私達の国にもサルはいますが、どうやってこんなに寒くて雪深い場所に適応したのか、とても興味がありました。
      結論? スノーモンキーは、この寒い環境に素晴らしく適応していて、ほんとうにかわいかった。」 (シンガポールからの旅行者)

    「 ずーっと会いたかったスノーモンキーに、ついに会えました。
      まさに思い描いた通りの素晴らしい体験でした。
      とてもかわいくて、かなり近寄って写真を撮ることができるし、みんなが温泉につかる姿はとてもキュートでした。」(オーストラリアからの旅行者)


     猿が自ら温泉に入りに来る「地獄谷野猿公苑」。
     こんな光景は世界中をさがしてもここだけ!温泉にはいるその表情はまさに極楽~!

     このように海外の人気は高く、ついには、あの「ミシュラン・グリーンガイド」にも掲載されたそうです。

     そう言えば、以前、中国南部の広州動物園に行った時、日本人の私たちは、「ガラスのないパンダ舎」に夢中でしたが、地元中国の人たちは、「日本ザル」のようなサルの檻の前に集まり、黒山の人だかりでした。

     外国では、以外と「日本ザル」が人気で、とりわけ「スノーモンキー」が人気なら、日本の観光は、これを活かしてほしいと思います。

      私は、サルが温泉から出た後、雪の中で「湯冷め」をしないか心配でした。
      でも、「安心してください。」
      サルの体毛は「長くて硬い毛」と「短くて柔らかい毛」で出来ていて、温泉で濡れるのは外側の長く硬い毛のみで水をはじくため、スノーモンキーは、「湯冷め」をしないそうです。

    <写真 温泉に入るスノーモンキー>



     最後に、1980年のサル年に引退した「伝説のアイドル」、山口百恵さんのラストシングル「さよならの向こう側」の歌詞の一部を紹介します。



    ♪「さよならの向こう側」♪

    作詞 阿木燿子
    作曲 宇崎竜童
     歌  山口百恵

    ♪ 何億光年 輝く星にも 寿命があると
    教えてくれたのは あなたでした
    季節ごとに咲く 一輪の花に 無限の命
    知らせてくれたのも あなたでした
    last song for you, last song for you
    約束なしの お別れです
    last song for you, last song for you
    今度はいつとは言えません

    あなたの燃える手 あなたの口づけ
    あなたのぬくもり あなたのすべて
    きっと私忘れません
    うしろ姿見ないでください

    Thank you for your kindness
    Thank you for your tenderness
    Thank you for your smile
    Thank you for your love
    Thank you for your everything
    さよならの かわりに 


    <一句> 

     温泉で スノーモンキー  赤ら顔

    2016年2月11日木曜日

    「建国記念の日」の由来 ~三本足の八咫烏=サッカー・高杉晋作・自衛隊~

     今回は、「建国記念の日」の由来について、紹介します。

     「建国記念の日」は、「国民の祝日」の一つで、ハッピーマンデーの対象ではなく、必ず「2月11日」になっています。
     ということは、何か重要な由来がありそうですね。

     「国民の祝日に関する法律」では、「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定されています。

     1966(昭和41)年に国民の祝日に加えられ、翌1967(昭和42)年の2月11日から適用されています。すると、今年、2016年は、50回目の「建国記念の日」ということになります。
     おめでとう!(結局、休みが嬉しいだけ?)

     2月11日は、戦前は「紀元節」と呼ばれていました。
     紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇「神武天皇」の即位の日として、1872(明治5)年に制定された祝日ですが、太平洋戦争後の1948(昭和23)年に、当時、日本を占領していたGHQ(アメリカを中心とした連合国軍総司令部)の意向で、廃止されました。

     その後、自由民主党の議員を中心に「建国記念日」を復活しようとの動きが高まり、9回国会に提出されましたが、当時の社会党を中心とする野党の反対で9回とも廃案になりました。

     結局、「建国記念日」ではなく、「の」を入れた「建国記念の日」とすることで決着し、1966(昭和41)年に国民の祝日に加えられました。

     それでは、「紀元節」の根拠はというと、「日本書記」(720(養老4)年 奈良時代)に書かれた記述がもとになっています。

     日本書紀によれば、初代天皇である神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年?~紀元前585年?)の即位は、「辛酉(かのととり=干支では58番目)の年の正月の庚辰の朔(旧暦1月1日)に、天皇橿原宮(奈良県)において帝位に即く」と記述されています。

     これを、明治政府が新暦に直した結果、神武天皇即位の日は「紀元前(BC)660年2月11日」であり、2月11日を「建国の日=紀元節」と定めました。

     歴史的には、紀元前660年は、日本では「縄文末期から弥生時代の始め」にあたり、神武天皇の寿命も120歳以上になるので、この出来事は「伝説」とされています。

    <橿原神宮(奈良県橿原市)>



     この伝説によると、神武天皇は日向の国(宮崎県)から東征しますが、河内国(大阪府)のあたりで、一度、破れます。

     「太陽の子の我々が、太陽(東)に向かって攻めるから破れたのだ。相手(大阪を拠点)より東に廻り込んで、太陽の方向(東)から攻めよう。」
     とおっしゃって、海路、熊野(和歌山県・三重県の南部)へ回って上陸します。

     ここでも苦戦しますが、「八咫烏(やたがらす)」という3本足のからすに導かれて、熊野から大和国(奈良県)へ入って、橿原宮で初代天皇として即位します。
     この即位の日が、西暦の紀元前660年2月11日ということになります。

     戦前は、この西暦紀元前660年を起点として「皇紀元年」とし、そこから何年目かという数え方もしていました。
     たとえば、太平洋戦争中の日本軍の主力戦闘機「ゼロセン」の名前は、正式採用された1940(昭和15)年が皇紀2600年にあたることから、その下二桁の「00」をとって、「零式艦上戦闘機=ゼロセン」と呼ばれるようになりました。

     因みに、一部のカレンダーには記載がありますが、2016(平成28)年は皇紀2676年に当たります。

    <零式艦上戦闘機(ゼロセン)>



       最後は、先ほども登場した「3本足のからす(八咫烏)」の伝説と、「三千世界のからすの話」を紹介します。 

      「3本足のからす=八咫烏(やたがらす)」は、神武天皇を案内したことから縁起のいいものとされ、日本ではシンボルマークやエンブレムに使われています。

      有名なのは「サッカー日本協会」のシンボルマークや、「サッカー日本代表チーム」のエンブレムです。
     他にも、戦前の日本軍や戦後の「陸上自衛隊中央情報隊」のマークにもなっています。

     また、2004年には、群馬県大泉町の天文家・小林隆男さんが発見した小惑星(1997 AY1)が「八咫烏」という名前で国際登録され、夜空に輝く星になっています。


     今も熊野のからすは、「八咫烏」の子孫として信仰の対象になっており、お土産物としても「八咫烏」が売られています。
     また、「熊野の牛玉宝印の札の裏に書いた約束事を破ると熊野のカラスが一羽死に、約束を破った本人も罰を受ける」という伝説もあります。

    <八咫烏の置物(熊野のみやげ)>




     この伝説を踏まえたのが、幕末の風雲児・高杉晋作(1839年~1867年、山口県出身)が作った、有名な次の「都々逸(どどいつ)」です。

    「三千世界の烏(からす)を殺し、主と朝寝がしてみたい」

      これは、「朝になると、うるさく鳴くカラスたちを全部殺してお前と朝寝がしたい」という意味に思えます。
     しかし、実は「他の男たちとの約束を全て破り、熊野のからすをことごとく死なせてしまってでも、あなたと朝寝をしていたい。」という内容も入っているそうです。

     「建国記念の日」の話から、最後は「からす」の話になりましたが、おもしろいですね。


    <マイ・ドドイツ>

     過去も 仕事も 悲運も忘れ 世界の話を してみたい」

    2016年2月7日日曜日

    世界3大雪祭「さっぽろ雪まつり」~歴史と祭を支える影の軍団~

     「お客さん、雪まつりも終わりまだ春も遠い。こんな時期に札幌に来ても、何もありませんよ。」
     数年前、私が2月末に、仕事で北海道の札幌を訪れたとき、タクシーの運転手に言われた言葉です。

     内心、「私は、何もない冬の札幌も好きなんだ。ほっといてくれ。」
     そう思いながら、カチンカチンに凍った<何もない夜の札幌>の街を、転ばないように恐る恐れ歩いた記憶があります。(冬の北海道には、結構、行っています。)

     でも、逆に言えば、「雪まつりの札幌はステキ」ということですね。
     今回は、2016(平成28)年2月5日に始まった世界三大雪まつりの一つ、「第67回さっぽろ雪まつり」を紹介したいと思います。

    <「さっぽろ雪まつり」(大通会場)>

     


     「さっぽろ雪まつり」は、1950(昭和25)年に、地元の中・高校生が、6体の雪像を「札幌市の大通公園」に設置したことを きっかけに始まりました。
     雪合戦や雪像展、カーニバルなども同時に開催し、5万人あまりの人出がありました。
     予想以上の大人気で、この後、札幌市の冬の行事として定着していきました。

     年々、盛んになってきた雪まつりですが、1974(昭和49)年のオイルショックの時には、雪を運ぶためのトラックのガソリンが不足して、ピンチになりました。

     「トイレットペーパーやガソリンが無くなる」という噂が流れ、パニックになった時代の波は、雪まつりにも襲いかかりました。
     それでも、雪像の中にドラム缶を入れて雪の量を節約するなどして、ピンチを乗り越えたそうです。(大きな像には、800本もドラム缶を入れたそうです。まるで、ドラム缶が雪化粧した感じですね。)

     その後も、「さっぽろ雪まつり」は年々盛んになっていき、昨年(2015年)は、観客数235万人、
    雪像数207基にもなっています。

     観光客全体の48%が札幌市民で、札幌以外の北海道内からの観光客が33%、北海道外からの観光客が14%(約32万人)となっています。
     また、外国人観光客も12万8千人に達しています。

     雪まつりは、経済的も札幌に貢献していて、2014年に札幌市が算出した「雪まつりの経済波及効果」では、その効果が419億円にものぼっています。

     今や「さっぽろ雪まつり」は、カナダの「ケベックウインターカーニバル」、中国の「ハルピン氷祭り」と並んで、「世界三大雪まつり」の一つと、言われています。

    <写真 ラグビー五郎丸選手の雪像>
     


       ここからは、2016(平成28)年の「さっぽろ雪まつり」について、紹介します。
       
       まず開催場所は、北海道札幌市内の次の3か所です。(下の地図参照)
    (1)大通会場(大通公園西1丁目から西12丁目まで)
    (2)つどーむ会場(スポーツ交流施設 「つどーむ」)
    (3)すすきの会場(南4条通から南7条通までの駅前通)

      次に会期は、「大通会場」と「すすきの会場」が2月5日(金)から2月11日(木・祝)までの7日間で、  「つどーむ会場」は、2月5日(金)から2月18日(木)までの14日間です。
    雪氷像の数は208基で、内訳は、 大通会場が126基、つどーむ会場が22基、すすきの会場が60基です。

     また雪氷像は、概ね次の3種類に分類されます。
    (1)大雪氷像は、高さ15mくらい(雪量5トントラックで500台程度)です。
    (2)中雪氷像は、高さ10mくらい(雪量5トントラックで300台程度)です。
    (3)小雪氷像は、高さ2mくらい(雪量5トントラックで2台程度)です。

     2016年の「大通会場」では、大雪像が5基(4、5、7、8、10丁目)、大氷像が2基(2、5丁目)を始め、国際雪像が12基、そして多くの市民雪像も立ち並んでいます。

     今年の特徴的な雪氷像としては、「ラグビーの五郎丸選手」や、「今春、函館まで開通する北海道新幹線」、さらには「人気アニメ:進撃の巨人」などが作られています。

     また、今年の会場では、2月11日まで、毎日、「雪ミク像ライトアップショー」や、「ラブライブ」、「進撃の巨人、サッポロに襲来!ライブ」などのイベントがあるそうです。

     さらに2月7日には、北海道旭川市出身の人気芸人「ともかく明るい安村」さんも出演するそうです。全裸で「雪まつり」、想像しただけで凍えそうですが、大丈夫でしょうか?

     会場の近くの方や、遠くても日程的に来場可能な方は、ぜひステキな「第67回さっぽろ雪まつり」をご覧ください。

    <会場の配置図>



      次は、「さっぽろ雪まつり」を、影で支える「軍団」のお話です。

    ・コンピューターを使ったCAD設計
    ・詳細図面作成 スケールモデル作成
    ・雪集めと輸送
    ・雪山造り
    ・作品の製作
    ・会場警備
    ・雪氷像の修復

     「影の軍団」は、これらの作業に関わり、「さっぽろ雪まつり」には、欠かせない縁の下の力持ち的存在となっています。
     この団体、何かわかりますすか?

     そうです。
     正解は、「自衛隊」なのです。文字通り「影の軍団」ですね。

     自衛隊は、1955(昭和30)年に初めて「さっぽろ雪まつり」に参加し、10mのマリア像「栄光」
    を製作しました。
     1965(昭和40)年の第16回からは正式に参加し、1972(昭和47)年の第23回には、実行委員会と自衛隊が「雪まつり協力に関する協定書」に調印しました。

     現在では、「陣地構築訓練」という名目の下に、重機などのハイテク機械や多くの自衛隊員を使って協力し、「雪まつり」には欠かせない「影の軍団」となっています。
     もちろん、作品の安全な撤去にも、自衛隊が大きな役割を担っています。

    <写真: 北海道新幹線の雪氷像>



      最後は、札幌に因んだ名曲を紹介します。

      これまでの最大の雪像は、札幌で冬季オリンピックが開催された1972(昭和47)年の第23回に、真駒内会場で展示された「ガリバーようこそ札幌へ」で、高さ25m、雪輸送トラック1300台分だったそうです。

     この年の札幌は、冬季オリンピック開催で注目を浴びていましたので、この雪像がテレビで世界中に紹介され、「さっぽろ雪まつり」の宣伝に大きな役割を担いました。

     この1972年の「札幌冬季オリンピック」では、テーマソングとして「虹と雪のバラード」という曲が作られました。
     かなり古い曲ですが、すごくいい曲だと思いますので、「札幌の因んだ名曲」として紹介します。(ぜひ、You Tubeで聴いてみてください。)


    ♪「虹と雪のバラード」♪

    作詞 河邨文一郎
    作曲 村井邦彦
    歌 トワ・エ・モア(ほかにも多くの歌手が歌っています)



    虹の地平を歩み出て
    影たちが近づく手を取りあって
    街ができる 美しい街が
    あふれる旗 叫び そして歌

    ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
    あの星たちの間に
    眠っている 北の空に
    君の名を呼ぶ オリンピックと


    雪の炎に ゆらめいて
    影たちが飛び去る ナイフのように
    空が残る 真っ青な空が
    あれは夢 ちから それとも恋

    ぼくらは書く 生命(イノチ)の限り
    今 太陽の真下に
    生まれ変わる サッポロの地に
    君の名を書く オリンピックと


    生まれ変わる サッポロの地に
    君の名を書く オリンピックと♪



    <一句>
    冬まつり ライトアップで ほっこりと
     
     

    2016年2月4日木曜日

    節分、初恋夢、そして立春大吉 ~恵方巻の魔法と鬼は内?~ 

     2016(平成28)年は、2月3日が「節分」、そして2月4日が「立春」です。
     暦の上では、「節分」が季節の終わる日を意味し、年4回(「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前の日)あります。

     そのうち、春分の前日の節分は「冬の終わる日」で、現在は、この日を一般的な節分と呼び、あとの3回は言わなくなっています。

     
     私は、今年の節分の朝に、不思議な夢を見ました。 
     2月3日の早朝、うとうとしていた私の夢の中に、「もう長い間、会ったことがない初恋の人」の名前が出てきました。

     ずっと前に忘れていたその人の名前が書かれた「赤いハンカチ」を、私はずっと見つめて、
    拾うかどうか、悩んでいました。
     遥かな昔の「初恋の人」の名前といい香りに、私は忘れていた「胸の高鳴り」を思い出してニヤケテいました。

     その時、耳元で「元プロ野球選手の清原和博」というテレビのニュースの声を聞きました。
     「男気・清原」は、私の好きだった野球選手の一人でしたので、「青春の夢の続きかな」とも思いました。

     ところが、「清原和博容疑者が、覚せい剤所持で逮捕」というニュースの言葉で、「甘い夢」は「ヒーロー逮捕の悪夢の現実」に変わってしまいました。

     「初恋夢」は醒めて、バッドニュースになってしまいましたが、私の気持ちは、久々に初恋の人の夢を見られただけで、幸せな「節分」でした。
     実は、その初恋の人の誕生日が「2月3日」で、しかも、癌にかかっているという「風の噂」も聞いて今は安否もわかりません。

     そんな人の夢が「節分の朝」に見られたのは、前日に食べた「恵方巻」の魔法のおかげかも知れません。


    <恵方巻(サークルK・サンクス)>

     
     
     
     
     季節の変わり目、「節分」には邪気(鬼)が生じると考えられていて、それを払う行事が節分の行事の由来です。もともとは、平安時代の宮中行事だと言われています。
     
     節分に、「鬼は外、福は内」と言って、豆をまく風習は、1447年(室町時代)には、すでに、記録として残っています。
     
     鬼退治に豆をまくのは、宇田天皇の時代(平安中期、890年頃)に都で暴れた鞍馬山の鬼の目を豆を投げつぶしたという伝説や、「魔(鬼)を滅する」という意味の「魔滅(まめ)」のごろ合わせだとする説があります。
     
     家の各部屋と出口に、「鬼は外、福は内」と言って豆をまき、その後、家族で歳の数に1つ加えた数(数え年)の豆を食べて健康を祈るのが、最もポピュラーな節分行事です。
     
     平成になってからは、「コンビニ」のセールの影響で、「節分」に、その年の吉方に向かって巻き寿司を食べる「恵方巻(えほうまき)」が、全国的に流行しています。
     
     私は、2月2日と3日の2日間で、4店のコンビニ(セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート、サークルK)の「恵方巻」を、「家族の幸福」の願いを込めて食べてみました。

     「節分」とともに心の冬が終わり、「家族の春」が来てほしいと願っています。






      一方、「立春」は文字通り、春の始まる日のことで「立春大吉」とも言います。

     「立春」は、「二十四節気の第1」で、太陽黄経が315度のときを言い、冬至と春分のちょうど中間の日です。
     「夏も近づく八十八夜」も、「台風の特異日、二百十日」も、「立春」から数えた日数です。
     
     「立春」は「旧暦の元旦」と、よく混同されますが、一致することは少なく、今年は「立春」が2月4日で、「旧暦の元旦」は2月8日です。

     ちなみに、「寒中見舞い」は立春の前日までで、以降は「余寒見舞い」(2月下旬頃まで)になります。


     おしまいは、「鬼は本当に悪者か?」の話です。

     「節分」の行事でおなじみなのは、「鬼は外、福は内」のセリフですが、本当に、鬼はみんな悪いのでしょうか?

     今年のテレビCMでは、携帯会社の人気CMでは、「鬼ちゃん」が大人気になっています。
     「鬼ちゃん」を演じるのは、俳優の菅田将暉(すだ まさき)さんで、1993年大阪府生まれです。

     人間の中に「いい人」と「悪い人」がいるように、鬼の中にも「いい鬼」と「悪い鬼」がいます。
     CMの「鬼ちゃん」を待たなくても、奈良県天川村など一部の地方では、節分の鬼を歓迎する地域があり、「鬼は内、福は内」と言います。

     これは、邪気を退治する鬼を、歓迎する意味があるそうです。
     ちょっと、安心する話ですね。

     今年の春は、これを読んでいただいている皆様にとっても私にとっても、「いい春」になるといいですね。



    <一句>

     節分の 夢は初恋  春に立つ