2016年3月27日日曜日

ニュースな国「ベルギー」~沿革・観光・なうとフランダースの犬~

   2016(平成28)年3月22日の朝8時頃(日本時間は16時頃)、ベルギーの首都ブリュッセルの国際空港と地下鉄で同時テロが発生し、34人が死亡し、日本人2人を含む多くの負傷者が出ています。

 犠牲者のみなさんには、哀悼の意を表したいと思います。

 今回の「ニュースな国」は、このベルギーについて紹介します。
 

 ベルギーは、正式名を「ベルギー王国」といい、ヨーロッパにある「連邦立憲君主制国家」です。
現在の国王はフリップ王です。

 人口は約1100万人、面積は30,528㎢です。
 日本でいうと、九州の人口が1300万人、面積が39,809㎢ですから、九州より少し小さい規模です。
 ただし、ベルギー政府観光局の資料には、「面積は四国の1.5倍」と出ていますので、そちらの表現の方を、してほしいのかも知れませんね。

 ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの3国は、ともに立憲君主制で、国土が小さく連携が強いため、「ベネルクス3国」と呼ばれることもあります。


 ベルギーの首都は、今回、テロがあったブりュッセル市で、市の人口は17万4千人ほどです。(うち、外国人が6万人)

 ちなみに、日本の同規模(17万人余り)の市(特別区)は、北海道苫小牧市、神奈川県鎌倉市、東京都台東区、富山県高岡市、島根県出雲市、山口県宇部市などです。

 「EU(ヨーロッパ連合)の首都」と呼ばれる割には、「小さい都市」という印象ですが、実際にはブリュッセル市を中心とした「ブリュッセル首都圏地域」を指すことも多く、この場合の人口は114万人で、日本で言うと、政令指定都市の広島県広島市と同規模になります。


<ベルギーと隣国の位置関係>



 ベルギーの歴史は比較的新しく、1830(天保元=江戸時代末期)年に、ネーデルラント国王ウィレム1世の支配に対して、「独立革命」を起こし、同年に独立を宣言したことで誕生します。

 翌1831(天保2)年7月21日に、ドイツの領主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えました。(この日が、建国記念日になっています。)

 その後、第一次世界大戦と第二次世界大戦では、ドイツに占領されますが、戦後、独立を回復しています。
 また、1908年~1960年まで、「アフリカのコンゴ」を植民地としていました。

 ベルギーは、「EU(ヨーロッパ連合)」の原加盟国の1つで、地理的にもフランス・ドイツと隣接し、イギリスとも海峡を挟んで近いことなどから、「首都ブリュッセル」は、欧州委員会(政策執行機関)など、EUの主要な機関が置かれていて、EUの「首都」的な性格を帯びています。


 ベルギーというと、高級チョコレート「ゴディバ」(1926年創業)などに代表されるチョコレートや、「ベルギーワッフル」でおなじみのワッフルなどの、加工菓子が有名です。
 他にも、世界最大のビール会社の「アンハイザー・ブッシュ・インベブ」もあり、グルメファン必見の国です。


 次にベルギーの観光地を、いくつか紹介します。

 まず、最初のおすすめは、ヴィクトル・ユゴーが「世界で最も美しい広場」と呼び、ジャン・コクトーが「絢爛たる劇場」と称えた、世界遺産にも登録されている「グランプラス広場」(ブリュッセル)です。

 首都ブリュッセルでは、このグランプラス広場を中心に、王立美術館やマグリット美術館などを巡り、蚤の市、レストランなどの街歩きが楽しむことができます。

 また、ブリュッセルから南西80kmほどにある「ハレルボスの森」には、まるでおとぎ話のように、青いヒヤシンスの絨毯が覆う「青い森の光景」があります。

 さらに、北東部にある古都「ブリュージュ」は、屋根のない美術館と呼ばれるほどの、メルヘンチックな町並みと水路があります。

 ちなみに、ベルギーの首都・ブリュッセルには、導火線に小便をかけて街を救ったという伝説がある「小便小僧の像」がありますが、この近くにはなんと「小便少女」の像もあるそうです。
(写真のアップはやめときますが、びっくりですね。)


<写真 グランプラス広場>
 


 それでは、一番気になる、ベルギーの「テロ事件後のようす」(ベルギーなう)を、ベルギー在住の「日本人ブログ」から抜粋して紹介します。


・ 「公共の交通機関は止まらない駅などはあるにせよ、運行を開始している。
 昨年11月のパリでの後は、迷彩服を着た軍人が銃を構えながら歩いていたけど、今日は外に出てもそんな光景は見られなかった。
  ただ家の前の通りには国旗を黒い紐で束ねて窓の外に出しているお家が数軒あり、近くの学校も半旗を掲げていた
  どんよりとした灰色の空と相まって、とても空気が重く感じた。ベルギーは3日間の国喪。」
(2016年3月25日、ベルギー在住日本人のブログ「ショコラの香りに誘われて」より)


・「メインストリートには、ベルギー国旗の半旗が掲げられています。
 良くクラシックのコンサートを聴きに来るホール(Bozar)も、ベルギー国旗の他、EU国旗、そしてホールの名前の旗も全て半旗状態です。

 入口は、一箇所に絞って、身元確認、荷物チェックをしていました。

 歩行者天国となっている大通りでは、ろうそくを灯し花を供えて事件の犠牲者へ捧げる一角があり、小さなろうそくを持ってきた僕らも冥福をお祈りしてきました。
 若者を中心にたくさんの人だかりがあり、追悼集会が、テロのあった当日のお昼頃からずっと行われています。」
(2016年3月25日、ブログ「ヨーロッパ発 日欧ミドルGAYカップルのツレ連れ日記」より) 

 
 早く平和なベルギーに戻るといいですね。


<写真:ハレルボスの森>



 おしまいは、ベルギーを舞台にした児童文学・アニメとして、日本で有名な「フランダースの犬」のお話です。

 「フランダースの犬」は、1872(明治5)年に、イギリスの作家ウィーダが書いた小説で、19世紀のベルギー北部のフランドル地方、アントワープに隣接する「ホーボケン (Hoboken)」という村 が舞台となっています。

 プロの画家を目指す貧乏な15歳の少年ネロが、願い叶わず愛犬のパトラッシュを抱きしめたまま、クリスマスの朝、「アントワープ大聖堂(聖母大聖堂)」の憧れのルーベンスの絵の前で、冷たくなって発見されるという悲しい話で、童話やアニメにもなったため日本人の多くが知っています。

 でも、アメリカでは「悲劇すぎる」と書き換えられ、地元ベルギーでは「イギリス人の書いた話」として、ほとんど知られていないそうです。

 なんだか、今も悲しい話ですね。

 ところが、日本人観光客からの問い合わせの多さに驚いたベルギーでは、1986(昭和61)年にホーボケンに「ネロとパトラッシュの銅像」が建てられました。(写真)
 また、2003(平成15)年には、「アントワープ・ノートルダム大聖堂」前の広場に記念碑が設置されました。

 よかったね!
 ネロ、そしてパトラッシュ。


♪「よあけのみち」 (アニメ「フランダースの犬」主題歌、1975年)♪

作詞/岸田衿子
作曲/渡辺岳夫
編曲/松山祐士



LaLaLa LaLaLa 
Zingen Zingen (訳:歌え 歌え) 
Kleine Vlinders (訳:小さな 蝶々)

LaLaLa LaLaLa 
Zingen Vlinders LaLa

ミルク色の夜明け
見えてくる まっすぐな道
忘れないよ この道を
パトラッシュと歩いた
空に続く道を ♪




<写真 ネロとパトラッシュの銅像(ベルギー)>



2016年3月23日水曜日

しづ心なく散る青春桜 ~入学と卒業 さくらが似合うのは?~

  3月19日に福岡と名古屋で、2016年の全国のトップを切って桜が開花し、3月21日には平年より5日早く東京(標本木・靖国神社)で開花しました。
 いよいよ、桜の季節ですね。
 そこで今回は、「桜・サクラの話」をしたいと思います。

<写真 東京国立新美術館(港区六本木)の桜>



 「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花ぞ散るらむ」

(現代語訳=春ののどかな日が差しているのに、桜の花は落ち着きもなく、急いで散ってしまう。)
 この和歌は、平安時代前期の紀友則(きのとものり 845年?~907年)の作で、「古今和歌集」に掲載されています。
 桜の花の美しさと切なさが出て、いい歌ですね。


 「桜・サクラ」は、バラ科モモ亜科スモモ属の落葉樹で、原産地はヒマラヤ近郊です。
 日本では、平安時代頃から「日本を代表する花」として、人気があり、江戸末期には300種類以上の桜が誕生しました。
 桜は、街路樹としても人気が高く、全国では50万本近くが植えられ、イチョウについで2番目に多い数です。

 桜の代表格といえば「ソメイヨシノ」ですが、ソメイヨシノは、江戸時代末期の江戸・染井村(現在の東京都豊島区駒込)で植木職人の品種改良によって生まれたという説が有力です。
 この辺の話を紹介した本に、岩崎京子さんの書いた「花咲か」(偕成社)があります。

<写真 桜の花>



  「春風の 花を散らすと 見る夢は 覚めても 胸の騒ぐなりけり」

(現代語訳=春風が桜の花を散らす夢を見ると、起きてもまだ胸がどきどきしている。)
 この和歌を作ったのは、平安時代末期の歌人・西行(さいぎょう 1118年~1190年)ですが、桜の一番の魅力は、春にパッと咲いて、潔く散ることですね。

 特にソメイヨシノが同時に咲いて、同時に散るのは、1つの株から全国に広がったクローンだからとも言われています。

 ここで問題です。
 桜はその華やかさと潔さで、「卒業式」や「入学式」の花とされていますが、「さくらが似合うのは、入学と卒業」どちらだと思いますか。

 今年、3月の初めに「フジテレビ」の番組でアンケートをとると、「卒業式=27%」「入学式=73%」(投票数3630)だったそうです。

 沖縄を除く桜の開花日は、3月下旬以降なので、本当に桜が咲くのは「卒業式」ではなく、「入学式」かそれ以降ですので、このアンケートの答えは正解ですね。

 それでも、その散り際の見事さと華やかさのせいか、「卒業=さくら」のイメージは、やっぱり強いですね。

 たとえば、「桜ソング」の代表、「さくら~独唱~」(作詞:森山直太朗・御徒町凧 作曲・歌:森山直太朗、2003年)でも、こんなフレーズがあります


さくら さくら 今咲きほこる
刹那に散るゆくさだめと知って
さらば友よ 旅立ちのとき
変わらないその想いを 今 ♪


 明らかに、卒業・別れの歌ですよね。
 
<写真 さくら>




 最後は、「桜と青春」をテーマに作った自作の詩を書きます。


「しづ心なく散る青春桜」

桜咲く入学式 君は光の中にいた
キラキラと光る 校門で
君は まぶしく 輝いていた

やがて青春の季節は 移っていった

夏-汗の洪水の中で 打ち込んだクラブ活動
秋-文化祭のライブを聞きながら 君を探して 佇んでいた 
冬-窓の雪とラジオの深夜放送を友に 時間と眠気と戦っていた受験勉強

春夏秋冬 春夏秋冬 春夏秋冬
それから  いくつもの季節が巡って

桜散る卒業式 君は涙の中にいた
しづ心なくヒラヒラと 桜の花びらが散る校門を
みんなが 静かに 旅立っていった

あとには 枝だけになった桜の木が
新しい別の青春を 見守る準備をしていた
 

2016年3月20日日曜日

春の彼岸に食べるのは「おはぎ?、ぼたもち?」~春分の日とお彼岸~

 今年は3月20日が「春分の日」で、この前後3日ずつを含む3月17日(木)から23日(水)までの1週間が、「彼岸(ひがん)」です。
 今回は、「春のお彼岸」の話をしたいと思います。

 「春分(しゅんぶん)の日」は、1878(明治11)年の太政官布告第23号の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」で、「春季皇霊祭」と定められた休日でした。
 これが、戦後、1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」で、国民の祝日「春分の日」になりました。


 「春分の日」は、二十四節気の一つで、昼と夜の長さが同じになる日ですが、本当は昼が少し長いそうです。

 「春分の日」の正式決定は、前年の2月に「国立天文台」が作成する『暦象年表』に基づき、閣議においてなされます。
 決定する日の前年2月の官報で、「暦要項」として公告されます。

 ところで、「春分の日」と「秋分の日」は、どちらも「国民の祝日」ですが、実は法律に定められている趣旨は、だいぶ違います。

 9月の「秋分の日」は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」であるのに対し、3月の「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」という趣旨です。

 もちろん、日本では、「春分の日」と「秋分の日」のどちらも、前後3日をあわせた1週間を「彼岸」、または丁寧に「お彼岸」と呼んで、先祖のお墓参りに行ったり、各寺院で「彼岸会(ひがんえ)」などが行われています。
 「交通安全週間」などのいわゆる「・・週間」の走りが、「お彼岸」ということですね。

<写真 ネコのお墓参り>




 彼岸は、日本だけの習慣ですが、イラン暦では、春分の日が「元旦」になるそうです。

 日本で初めて、「彼岸会」が行われたのは、今から1200年以上前、平安時代初期の806(大同元)年に、大阪の「四天王寺」だったと「日本後記」(840年完成)に書かれています。

 江戸時代になると、お彼岸の行事は一般に定着しました。
 「彼岸(ひがん)」の語源には、2つの説があります。

    一つは、古代インドの「サンスクリット語からきた仏教の言葉」という説です。
 サンスクリット語の「パーラム(param)」が、仏教用語で「彼岸に至る」意味の「波羅蜜」になり、「彼岸」になったという説です。
   私たちが生きているこの世「此岸」は、人間の煩悩に迷い苦しむ所なのに対して、死者のいる世界は、煩悩を断ち切って、悟りを得た浬磐の境地=「彼岸」になると言われています。

 もう一つの説は、日本の太陽信仰から来た「日願」が語源という説です。
 春分の日・秋分の日には、太陽が「真東から出て真西に沈む」とともに、昼と夜の長さが同じになります。

 「太陽への願い」を意味する「日願」は、お日さま、太陽に対する農民の信仰を意味していで、「日天願」と呼ぶ地方もあるそうです。
 この日願が「彼岸」となったという説です。


   彼岸は、ちょうど太陽が真西に沈むため、「彼岸会」に夕日を拝む風習が、京都府や兵庫県をはじめ全国各地で定着しました。
 ちなみに、春分の日と秋分の日に、沈む太陽が示す極楽浄土への道を「白道(びゃくどう)」と言います。
 

<写真 ぼたもち>



  さて、ここからスイーツファンにとって、もっとも重要な話、お彼岸に食べる「ぼたもち」と「おはぎ」の話をします。(煩悩だらけですね。ダイエットは?)

 では、突然ですがクイズです。
 「ぼたもち」と「おはぎ」の違いは、何でしょうか?

 実は、材料や作り方は、同じものなんです。

 春の彼岸、つまり「牡丹(ぼたん)」の花が咲く頃に作るのが「ぼたん餅」、つまり「ぼたもち」です。
 一方、秋の彼岸、「萩(はぎ)」の花が咲く頃に作るのが、「はぎ餅」、つまり「おはぎ」なんです。
 それぞれの花の大きさに似せて、「ぼた餅」が「おはぎ」より大きいとも言われています。

 もう一つ、違いがあるとしたら、「ぼたもち」のあんは「こしあん」が多く、「おはぎ」のあんは「つぶあん」が多いことです。

 これは、あんこの原料の「小豆(あずき)」が、秋に収穫されることが関係しています。
 「おはぎ」を作る秋は、採れ立ての新鮮なあんこが使用できるので、「つぶあん」を使います。
 一方、「ぼたもち」を作る春、つまり今は、あずきの皮が硬くなっているので、すり潰した「こしあん」を使うそうです。


 こんな話をしていると、「ぼたもち」が食べたくなってきました。
 よし、こしあんの「ぼたもち」を買ってこよう。
 と、ブログを途中で中断して、近くのスーパーへ行きました。

 そこで、衝撃の事実を発見しました。
 なんと、近くのスーパーマーケットでは、3月なのに、堂々と「おはぎ」と「ぼたもち」、両方の名前で売られていました。

「結局、おはぎとぼたもちの違いは普及していないのか。」
 ちょっと悲しくなりましたが、店員に「ブログを読め」とも言えず、せめて、自分だけは意地でも守るぞと思いつつ、「こしあんのぼたもち」を買って来ました。

 よし、食べるぞ!

 そうそう、もちろん「ぽたもち」を食べる際には、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」気持ちをもって、「祖先をうやまい、なくなった人々をしのび」ながら、少しだけ煩悩を許して食べましょう。
 いただきます!

 お墓を個人や家で持つことも「少子高齢化」の影響で、減っています。
 いつか、お彼岸の墓参りもなくなるのかと思うと、寂しいですね。


 最後に、「ぼた餅」じゃなくて、「牡丹(ぼたん)」の花言葉を紹介します。
 日本語で、「牡丹」の花言葉は、「風格」、「富貴」、「恥じらい」、「人見知り」
です。
  英語で言うと、「bashfulness(恥じらい、はにかみ)」、「compassion(思いやり)」です。


<写真:牡丹(ぼたん)>






<一句>
 雲さえも ぼた餅みたいな 彼岸(ひがん)空 

 
*俳句で「彼岸」は春の季語です。

2016年3月17日木曜日

「3.11の教訓と課題・原発事故編」~見えない恐怖とキューリー夫人の名言~

 5年前の2011(平成23)年3月11日に発生した「東日本大震災」が、他の自然災害と決定的に違うのは、津波・地震だけでなく「東京電力福島第1原子力発電所」でメルトダウンが起きたことです。

 福島原発事故の教訓は、「絶対に安全な原子力発電所はない」ということと、事故の後の「正確な避難情報を適切に出す大切さ」だと思います。

 福島原発の事故後の東京電力や政府の対応には、残念ながら疑問符(?)をつけざるを得ません。

 まず、原発事故の判定で最も重要であるはずの「メルトダウン(炉心融解)」の基準が、東電の『原子力災害対策マニュアル』には、「炉心損傷割合が5%を超えていれば炉心融解(メルトダウン)と判定する。」と明記されていていました。

 このマニュアルに従えば、原発事故3日後の2011(平成23)年3月14日には、「1号機の炉心損傷55%」、「3号機の炉心損傷30%」と確認されているので、メルトダウンと判定・公表できたはずでした。

 ところが、実際に「メルトダウン(炉心融解)」を公表したのは、2カ月後の2011年5月でした。
 早期避難の時期は、完全に失しています。

 そして、このマニュアルの運用間違いに気づいたのは、5年後の今年、2016年になってからです。
 それも新潟県の求めに応じて、当時の経緯を見直した際ということです。
  こんな重大で基本的なミスが、原子力事故対策のプロの東電に許されるのでしょうか。

<福島第1原子力発電所(福島県大熊町・双葉町)>



 もう一つ、文部科学省の「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム=スピーディ)」のデータも、震災直後の1ヶ月あまり公表されず、避難には活用されませんでした。
 今年になって、やっと政府は「自治体の判断で、避難にSPEEDIを活用してもよい」との見解を示しましたが、「原子力規制委員会」の2016年3月16日の見解では、これに否定的です。

 一方、政府や東電は、福島県内の「除染」が進み、福島原発の「廃炉プロセス」は最長でも40年以内に終わると言っています。
 福島は安全になりつつあると、政府や東電は言いますが、本当に「安心してください」と言えるのでしょうか?

 こういう時に正しい判断をするためには、私は、「欧米のマスコミの記事」を見るのがいいと思っています。
 そういう意味で、私はBS1の「ワールドニュース」で世界各国のニュースを見るのが好きです。

 それでは、ヨーロッパやアメリカに本拠を置くマスコミの2016年3月の記事から、福島原発の今を欧米でどう報じられているのかを見てみましょう。
 
 
<以下、2016年3月の欧米マスコミ記事から抜粋・要約>

・ 現在も「福島第1原発」の放射線は依然として非常に強く、炉内に人間が入って、溶融した燃料棒の塊を発見・除去することは不可能な状態である。

・ 福島第1原発の溶融した燃料棒は、原子炉内の格納容器を突き抜け、「現在の正確な場所」は誰にも分からない。
 
・ 東京電力では、溶融した燃料棒を探すためにロボットの開発に取り組んでいるが、ロボットが原子炉に近づくと放射線によって回路が破壊されてしまい役に立っていないのが現状。
 
・ 福島第1原発にいる8000人以上の作業員の多くは、「原子炉を冷却するための注水」に関連した作業をしている。

・ 「放射性物質を含む水」は、原子炉から汲み出され敷地周辺のタンクに貯蔵されているが、許容量がいっぱいに近づいており、100万トン近い汚染水をどう処理するかが、最大の課題の1つ。
 
・ 東京電力は、事故処理作業は「約10%完了」したと話しており、「廃炉プロセス」には30─40年かかる可能性があると言っている。
 しかし、専門家によれば、東電が「燃料の位置を特定できない」あいだは、進捗状況や最終的な廃炉費用を評価することはできない。

 
  日本の「原発ニュース」がわかりにくいのに比べて、欧米の記事の結論は単純明解ですね。
 結局、メルトダウンした原子炉の処理は、「現在のところ解決方法がない」というのが本当のところのようです。
  解決方法を、確立するのが「緊急かつ最大の課題」ですね。


<緑の稲穂>






 もう一つ重要な課題は、「放射線の人体への影響」と「安全基準」の確立です。
 
 「福島第一原発の敷地内で、防護服を脱ぎ普段着で作業を始めた」とか、「福島原発事故の避難解除区域を拡大する」という記事が出ていましたが、「原子炉処理の解決方法がない」中で、本当に科学的根拠があって安全なのでしょうか?。
 
 「原発問題」をわかりにくくしている一つの要素に、「様々な単位」の氾濫とその「安全基準」の曖昧さにあります。
 そこで、代表的な単位、「ベクレル」と「シーベルト」の違いを、簡単に説明します。
 
 「ベクレル(Bq)」は、放射性物質が1秒間に崩壊する原子の個数(放射能)を表す単位です。
 主に、食品や水・土壌の中に含まれる「放射能の総量」を表す場合に使われます。
 「1キログラムあたり1000ベクレル」の様な形で使います。

 ちなみに、日本の暫定基準値は、セシウム(Ca137)が200Bq/ℓで、ヨウ素(I131)が300Bq/ℓですが、WHOの基準はどちらも10Bq/ℓです。
 日本の基準は、WHOの20~30倍です。高すぎませんか?

     一方、「シーベルト(Sv)」は、外部被曝や内部被曝で実際に人体が影響を受ける線量を表す単位で、「1時間あたり1ミリシーベルト」の様な形で用います。
 
  「国際放射線防護委員会」では、累計で200ミリシーベルト以上浴びると、「発がん率」が大きくなり危険としていますが、それ未満の少量の放射線の影響については、「詳細はわからない」のが現状です。

 ちなみに、原発事故後に国が決めた避難基準と校庭の使用制限基準は、「年間 20 mSv(マイクロシーベルト)」ですが、長期的な目標は年間1mSvです。
 もし仮に、 基準の20 mSv を撤回し、避難区域を 1mSv に設定したら、福島県のほぼ全域、宮城、茨城、千葉、東京、埼玉の一部が避難区域になります。


<チェルノブイリ原発の石棺>




  1986(昭和61)年に発生したウクライナ(当時はソ連)の「チェルノブイリ原子力発電所事故」
では、「石棺」と呼ばれるコンクリートの建造物で、メルトダウンした原発を覆っています。
 
 それでも、半径30km圏内の住民約11万6000人は強制避難させられ、「線量ホットスポット」と呼ばれる北西約100km圏内も避難対象となっていて、計40万人超が移住を余儀なくされています。

 この先行事例(?)を参考にして、慎重に安全側をとって対処してほしいものです。

 
  原子力発電所の燃料の「炉心融解(メルトダウン)」が進行し、圧力容器・格納容器外に漏出するのを「メルトスルー」と言います。
 また、原発の建屋を抜けて、外部へ漏出した場合は「メルトアウト」と表現されます。

 福島原発の溶融した燃料棒の「現在の正確な場所」が、誰にも分からない以上、残念ながら「メルトスルー」や「メルトアウト」の可能性も、否定できないのでしょうか。

   今は、福島原発の事故処理が、東電の言うように早く終わり、「安全で安心な福島」が取り戻せるように願うばかりです。
 少なくてもそれまでは、政府と東電が、放射線の恐怖から、住民や作業員の「安全と健康」を守ってほしいものです。

<キュリー夫人(1911年)>




 おしまいに、放射能を発見、命名し、ノーベル賞を2度(物理学賞、科学省)受賞した「キュリー夫人(マリア・S・キュリー、1867年~1934年、ポーランド出身)」の名言を紹介します。

 キュリー夫人は、ポーランドに生まれ、10歳の時に母を亡くし、家庭教師をしながら勉強し、パリ大学へ行っても屋根裏部屋で勉強し、ついにはノーベル賞を2回、受賞しました。

 「なぜ、特許を取らなかったのか」との質問に、キュリー夫人はこう答えました。
「どうして、特許を取らなかったのか、ですか?
 そんなこと出来ますか、科学の精神に反します。」


 貧乏で苦労したキュリー夫人の、この言葉には、重みがあってすばらしいですね。

 放射能は、このような志の高い女性が発見したものであることを、みんなが思い出すべきだと思います。


<一句>
 透明な 恐怖乗り越え 咲けふくしま

 

2016年3月13日日曜日

中学教師が作ったNo.1卒業ソング「旅立ちの日に」(♪白い光の中に 山なみは萌えて♪)

 3月は「旅立ち」、「卒業」、の季節です。

 現在、日本の卒業式で最もたくさん歌われている「No.1卒業ソング」は、文部省唱歌でも、有名歌手の歌でもなく、埼玉県の中学校の先生たちが作った曲「旅立ちの日に」です。

 たくさんの人が卒業式で聴いたり歌ったりした経験のあると思います。
 まず、この曲の1番を紹介します。


♪「旅立ちの日に」
作詞:小嶋 登 作曲:坂本浩美  

♪ <1>
白い光の中に 山なみは萌えて
遥かな空の果てまでも 君はとび立つ


限り無く青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず


勇気を翼にこめて希望の風にのり
このひろい大空に夢をたくして♪


<写真:歌が誕生した秩父市立影森中学校(埼玉県)>



  『旅立ちの日に』(たびだちのひに)は、1991(平成3)年に、埼玉県秩父市立影森中学校の校長だった小嶋登先生が作詞し、音楽教諭の坂本浩美先生が作曲した合唱曲です。

  影森中学校の小嶋校長と音楽の坂本先生は、荒れていた学校を建て直すために、「歌声の響く学校」を掲げ、合唱の機会を増やしました。

 始めのうちは、生徒たちは抵抗しましたが、小嶋校長と音楽科教諭の坂本先生たちが、粘り強く努力を続けた結果、歌う楽しさによって学校は明るくなりました。

 「歌声の響く学校」を目指して3年目の春、1991(平成3)2月、坂本先生は、「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、世界にひとつしかないものを残したい」との思いから、生徒に歌をプレゼントすることを思いつきました。

 坂本先生は、作詞を小嶋校長先生に依頼しました。
 一旦は、小嶋校長は、
「私にはそんなセンスはないから」
と断りましたが、翌日、坂本先生ののデスクに書き上げられた詞が置いてありました。

 その詞を見た坂本先生は、
「なんて素敵な言葉が散りばめられているんだろう。」と感激しました。

 坂本先生は、授業の空き時間にひとり音楽室にこもり、作曲に取り組みました。
 旋律が湧き出るように浮かび、楽曲制作は、わずか15分で完成しました。

 この曲は、一度だけ、「3年生を送る会」で、教職員たちが卒業生に向けて歌うことになっていました。
 「You Tube」には、小嶋校長が初めて歌う様子が残っているものもあります。
<初演 合唱曲 「旅立ちの日に」>で検索してみてください。

 初めて「旅立ちの日に」を披露した1991年3月、小嶋登校長は定年退職しました。
 小嶋校長が披露した「旅立ちの日に」は、これが最初で最後となりました。

 ところが、名曲は一人で歩き始めました。
 翌年も、その翌年も、影森中学で歌われ、やがて周辺の学校や埼玉県内全域に広がりました。

 1998(平成10)年には、雑誌『教育音楽』に取り上げられたこともあって、全国の学校で歌われるようになりました。
 その後、芹洋子さんやダークダックス、秋川雅史さんなど、有名歌手がカバーし、2007年にはSMAPが「NTT東日本」のCMで歌いました。

 そして今では、小中高の卒業式で広く歌われ、『仰げば尊し』や『贈る言葉』などに代わり、日本一多く歌われる卒業ソングとなりました。
 埼玉県の中学の先生たちが作った曲が、日本一の卒業ソングになったのは、すごいですね。
 それでは、2番以降を紹介します。


<2>
懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあの時

心かよったうれしさに 抱き合った日よ
みんな過ぎたけれど 思い出強く抱いて

勇気を翼に込めて 希望の風にのり
このひろい大空に 夢をたくして

いま 別れのとき
飛び立とう 未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい このひろい 大空に♪


<写真:「旅立ちの日に」の歌碑(埼玉県秩父市立影森中学校)>




 作詞者の小嶋登元校長は、「旅立ちの日に」の曲が出来て、ちょうど20年目の2011(平成23)年1月20日に、急性心筋梗塞のため80歳で亡くなられ、「大空へ」とび立たれました。
 作曲者の坂本浩美先生は、結婚されて高橋浩美先生になり、特別支援学校で教師を続けておられます。

 2人が作った「旅立ちの日に」は、毎年3月に、日本中で歌われています。

 小嶋登先生が亡くなった2011(平成23)年11月、「旅立ちの日に」の作詞者小嶋登さんと、作曲者の高橋浩美さんに、埼玉県より「彩の国特別功労賞」が贈呈されました。

 秩父市にある「秩父ミューズパーク」には、「旅立ちの丘」として展望デッキを備えた施設があり、誕生の舞台となった影森中学校の生徒による「旅立ちの日に」のコーラスが流れる仕掛けになっています。、
 また、卒業式の歌「旅立ちの日に」の歌碑が、影森中学校内にあります。

 中学の2人の先生が作った「旅立ちの日に」は、毎年、多くの旅立つ若者に、勇気を与え続けています。
 


2016年3月11日金曜日

3.11を忘れない 大震災から5年~教訓と課題・津波編~ 

 忘れることができない「3月11日、東日本大震災」から5年目のあの日がやってきました。

 復興庁によれば、東日本大震災によって全国に避難している人は、2016(平成28)年2月12日の時点で17万4471人に上っています。
 また、「福島第1原子力発電所」でメルトダウンの起きた福島県では、今も9つの市町村に避難指示が出され、10万人近くが避難生活を続けています。


 3月11日を忘れないためにも、もう1度、東日本大震災の「教訓と課題」を、津波と原発事故の2つに分けて考えてみたいと思います。
 今回は、「津波」についてです。

 2011(平成23)年3月11日の「東日本大震災」では、マグニチュード9.0という日本の歴史上最大規模の地震が発生し、最大震度7、津波の高さは各地で10mを超え、最大遡上高は40.1mにも達しました。
 
 犠牲者は、岩手県・宮城県・福島県を中心に1都1道10県に及び、死者は15,894人、行方不明者は2、561人(2016年3月10日現在、警察庁)で、昭和以降では最大の犠牲者を出した自然災害となっています。
 
 中でも、死者の死因の90.6%が「水死」で、大津波による犠牲者です。
 この中には、避難が早ければ助かった命も多いと思われます。
 そこで、津波避難について、もう一度、おさらいしてみたいと思います。
 
 
 東日本大震災で多くの犠牲者が出る中、岩手県釜石市の小中学生は、ほとんどが津波から避難して助かりました。
 「釜石の奇跡」と呼ばれるこの避難行動を生んだのは、群馬大学の片田敏孝教授が子供たちに繰り返し教えていた、「津波避難3原則」があったと言われています。
 
  人間には「正常化の偏見」という、危機になっても自分だけは大丈夫だという偏見があるそうです。
 普段は、この偏見が自分を信じる「自信」となり、心にポジティブな勇気を与えてくれるものです。
 ところが、大災害、特に津波の時には、「自分だけは大丈夫。だから、まだ避難しなくても大丈夫。」という考え、 あるいは「ここまで、避難すれば大丈夫。」という正常化の偏見が災いし、最悪の場合、逃げ遅れ、津波の犠牲になってしまうことがあります。
 そこで、片田敏孝教授は「津波避難3原則」を提唱しています。
 第1は、「想定にとらわれるな。」です。
 東日本大震災では、従来想定されていた津波高をはるかに超える「大津波」がやってきました。ハザードマップなどの想定にとらわれ、自分の場所は大丈夫と判断した人々の多くが津波の犠牲になりました。
 ハザードマップは目安であって、絶対に安全というものではないのです。
 第2は「最善を尽くせ」です。
 想定にとらわれず、少しでも安全で、できる限り高い場所へ避難する、つまり、その時できる最善を尽くすことが大切です。
 最後の3番目は、「率先避難者たれ!」です。
 自分が1番最初に逃げ出せ。それも、できるだけ周りの人に「逃げろ」と大声で呼びかけながら逃げろという教えです。
 人間の心は弱く、「自分だけは大丈夫」「最初に逃げたら恥ずかしい」と思いがちです。それを打破するのは、避難者のリーダー、「率先避難者」だという教えです。
 片田先生の教えを守った釜石の小中学生は、想定にとらわれず少しでも高いところへ、自分のできる最善を尽くして逃げました。
 しかも、まわりの子供たちや老人、大人たちにも避難を呼びかけながら、率先して逃げました。
 約3000人の釜石の小中学生が助かり、まわりの大人たちの多くの命も救われました。
 「勇気を出して津波から逃げる」という教えを、釜石市の防災アドバイザーとして震災前に片田先生から授かり、その教えを守った小中学生が、「釜石の奇跡」を起こしたのです。
<写真:東日本大震災で津波から避難する釜石市の子供たち>
 

 東日本大震災以降、気象庁では次の基準で、津波警報や津波注意報を発表しています。
 
第1報(約3分以内)
大津波警報
 高さは「巨大」と表現し、「直ちに高台に避難」と呼びかける。
津波警報
 高さは「高い」と表現し、「直ちに高台に避難」と呼びかける。

第2報(約15分後)
 
発表される高さ
発表基準
大津波警報
10m超
10m < (予想高)
10m
5m < (予想高) ≦ 10m
5m
3m < (予想高) ≦ 5m
津波警報
3m
1m < (予想高) ≦ 3m
津波注意報
1m
0.2m ≦ (予想高) ≦ 1m

 

 以前にも紹介しましたが、「地震情報」から、津波の発生の有無を判断できる基準があります。

 気象庁の予報官の話によると、津波が発生する恐れがある地震は、
(1)震源が海で、
(2)震源の深さが60kmより浅く、
(3)マグニチュード(地震の規模=M)が6.5以上の地震
だそうです。
 
 つまり、津波の有無は、震源の位置・深さと、マグニチュードの3つの要素で決まり、揺れの強さを表す震度の大きさは関係ないのです。
 2011(平成23)年3月11日の東日本大震災は、震源は三陸沖(海)で震源の深さは24km、マグニチュードは9.0と、津波の3要素をすべて満たしており、特にマグニチュードが日本の観測史上最大であったことで、大津波が発生し甚大な被害が発生しました。
 この地震の最大震度は7(宮城県)です。
 一方、1995(平成7)年1月17日に発生した「阪神淡路大震災」は、震源が野島断層(六甲から淡路島にかけての断層でほとんどが陸)で、震源の深さは16km、マグニチュードは7.3、最大震度は7(兵庫県神戸市)です。
 この地震の揺れは、非常に大きかったのですが、震源がほとんど陸地だったため津波の発生はありませんでした。
 「震源の位置、深さ、マグニチュード」が、津波発生の有無を決めるのは、ほぼ確実です。
 ただし、個人個人が判断する場合、いくつかの注意点があります。
(1) 情報が確実に入るかどうかわからないので、津波の恐れがある沿岸部や、遡上の恐れのある河川の近くなどで地震を感じたら、まずは、「釜石の軌跡」の津波避難3原則を守って、少しでも高いところへ逃げるのが安全です。
(2) テレビ・ラジオや防災メールなどで情報が入っても、最初の段階の情報はあくまで「推定」なので、鵜呑みにせず、念のため安全側の行動をとることが大切です。
  たとえば、「東日本大震災」の最初の発表のマグニチュード(M)は7.6でしたが、最終的なマグニチュード(M)は9.0になりました。
(3) 1960(昭和35)年のチリ津波(南米チリで発生した地震では、数十時間後に、国内で大津波を観測)しましたが、国内ではまったく揺れは観測されませんでした。
 このように、外国の地震でも津波が発生することがあります。これを「遠地津波」と呼んでいます。
  津波や地震について、普段からよく学び、きっちり備え、十分に訓練しておくこと。そして、「勇気を出して逃げること」が、いざという時に、あなたにも「奇跡」を起こすことになるはずです。
 東日本大震災が起こったこの時期に、もう1度、津波避難について、チェックしませんか。

<写真 津波被害者への祈り>




 もう一つの「津波の課題」についてです。

 2011(平成23)年の「東日本大震災」の前に、同規模の大津波が東北の太平洋側を襲ったのは、平安時代前期の869(貞観11)年7月だったと言われています。つまり、1142年前です。
 
 東北沿岸、特に福島県のあたりは、「数百年間、大災害がない」と言われていて、一時は「首都移転の有力候補地」でした。
 ところが、大津波はやってきました。
 
 この事実を、教訓にどう生かすかです。
 まず、今回の津波到達地点を明示するものを、できるだけ多く残して、「事実としてここまで津波が来た」ことを後世に伝えることが重要です。
 
 次に、高台へ移転するか、ある程度のリスクは承知で沿岸部に、町を再建するかの選択を、個々にすることになります。
 沿岸部に住んだり仕事をしたりする場合、少なくても「東日本大震災の津波高と到達時間」に耐えられる、高層ビルや丘、避難経路の確保が、教訓を活かすことになると思います。
 
 
 100年~200年に1回、大津波に襲われている「東海・近畿・四国」の太平洋側の街々を見ると、津波への準備は万全とは言えません。
 
 人は災害を忘れ、便利な海の近くに住むものだと思わざるを得ません。(私のいるところも、「遠くで汽笛が聞こえる」沿岸部です。)
 
 ハードが無理なら、せめて、情報取得や避難訓練などのソフト面の「津波準備」を、3月11日には、日本中でしたいものです。
 
 それが東日本大震災で犠牲になられた人たちの教訓を、生かすことになるのだと信じています。


 最後に、Yahoo!の「Search for 3.11」という被災地を支援する取り組みを紹介します。

 3月11日限定で、「3.11」と入力してヤフーで検索すると、1人10円の被災地支援金をヤフーが負担してくれるそうです。
 みんなで「3.11」で検索して、少しでも被災地支援をしましょう。
 

2016年3月6日日曜日

♪卒業ソング 「旅立ちの日に」と「明日への扉」~川嶋あいさん~

 卒業シーズンですね。
 先日、ある卒業式に出席させてもらって、涙ながらに「答辞」を読む卒業生代表を見て、目頭が熱くなりました。
 自分が卒業生でなくても、卒業式は泣けてきますね。

 卒業ソングは、ずっと昔は「蛍の光」か「仰げば尊し」と決まっていました。
 その後、海援隊の「贈る言葉」や斉藤由貴さんの「卒業」なんかが、よく歌われるようになりました。
 最近、人気のあるのは、レミオロメンの「3月9日」や、いきものがかりの「YELL」などです。

 そんな、名曲・ヒット曲揃いの卒業ソングの中に、「旅立ちの日に」という歌が2曲、上位にランクインしています。

 1つは埼玉県の中学の先生が作った「旅立ちの日に」(♪白い光の中に 山なみは萌えて・・・・)で、もう1つは、シンガーソングライターの川嶋あいさんが作った「旅立ちの日に」です。
 
 どちらもいい曲で、それぞれに心温まるエピソードがありますので紹介したいと思っています。  
 今回はそのうち、川嶋あいさんの「旅立ちの日に」を紹介します。
 まず、1番の歌詞をご覧ください。


♪「旅立ちの日に」
(作詞・作曲・歌 川嶋あい 2006(平成18)年発売) 


桜舞う4月の教室で
波打つ胸をはずませながら
出会った永遠(とわ)の仲間達あどけない手交わしたね

あの日かけまわった校庭
笑顔によく生えた光る汗
 
時に素直になるの嫌って
ぶつかり合ってケンカもしたね
放課後行った常連の店
 いつもの駄菓子屋 忘れてないよ指切りをして交わした約束
みんなきらめく陽だまりの粒
いつのまにか時は流れ もう今日は卒業の日
人はいつか旅立つ者 だけど

いつの日にかまたどこかで会える気がするからね
輝く日々を忘れないで ♪



<写真 黒板に卒業生が残したメッセージ>

 


 桜舞う教室で出会ったクラスメートと、笑ったり汗を流したりケンカをしたりした学生時代が、本当に生き生きと思い出させる歌詞ですね。
 これは、川嶋あいさんが高校生の時に、作詞・作曲し路上ライブでも歌っていた曲なので、そのリアルさに共感できます。

 ところで、この曲には、オリコンチャート1位をとった別の名前と歌詞の曲があります。
 それが、「明日への扉」という曲です。

 この歌は、フジテレビの恋愛バラエティー番組「あいのり」のテーマ曲として2002年10月から1年間テレビで放送され、「I WiSH」というグループ名でCD発売されました。
 このヴォーカル「 ai」は、川嶋あいさんでした。
 「明日への扉」の1番を書きます。


♪「明日への扉」
(作詞・作曲 ai   歌:I WiSH 2003(平成15)年発売) 



光る汗 Tシャツ 出会った恋
誰よりも輝く君を見て
初めての気持ちを見つけたよ
新たな旅が始まる

雨上がり 気まぐれ 蒼い風
強い日差し いつか追い越して
これから描いていく 恋の色
始まりのページ 彩るよ


占い雑誌 二つの星に
二人の未来を重ねてみるの
かさぶただらけ とれない心
あなたの優しさで ふさがる

いつの間にか 隙間あいた心が満たされて行く
ふとした瞬間の さりげない仕草
いつの間にか 夢を語る あなたの顔をずっと
見つめていたい 微笑んでいたい


<「明日への扉」 CDジャケット>




 この2つの歌詞は、どちらも、2002年に16歳だった川嶋あいさんが作ったものだとされています。
 どちらもいい歌詞だと思いますし好きですが、「旅立ちの日に」は16歳の女子高校生が素直に書いた詩なのに対し、「明日への扉」はテレビ主題歌にするために、難しい言葉よりわかりやすく覚えやすい「ことば」を入れていて、プロが補作した跡が見えるような気がします。
 
 前者は「卒業の歌」、後者は「恋愛の歌」ですので、単純には比較はできませんが、詞のできは「明日への扉」の方が、断然いいと思います。

 ところが、おもしろいのは、「明日への扉」がオリコンチャート1位になり爆発的にヒットしたのに対して、「旅立ちの日に」は、卒業ソングの定番として10年以上、歌い継がれている点です。
 
 そう言えば、もう一つの「旅立ちの日に」という歌も、爆発的ヒットはしませんでしたが、学校現場で作られたことが共感を呼び、今は全国の卒業式で歌われています。(別の回に、詳しく紹介したいと思っています。)

 本当に長く「人の心に残る歌」は、自分の経験や思いが込められているもの、なのかも知れませんね。

 そう言えば、川嶋あいさんの「旅立ちの日に」は、こんな実話があります。

 2011(平成23)年3月11日、「東日本大震災」が発生した夜、大津波から逃れるために高台の神社に避難した「宮城県南三陸町戸倉小学校」の6年生20人余は、卒業式で歌うはずだった「旅立ちの日に」を歌って、お互いを励ましながら不安な一晩を過ごしたそうです。

 新聞記事でこのことを知った川嶋あいさんは、「何か力になりたい」と休みを利用して卒業生らが避難生活を送る避難所を訪れ、ともに「旅立ちの日に」を歌い、卒業記念品を贈りました。
 さらに、その年の8月21日、約5ヶ月延期になっていた「戸倉小学校の卒業式」に出席し、「旅立ちの日に」を卒業生23人と共に、ピアノの弾き語りで合唱しました。

 歌が、人に勇気を与え感動を与えた「エピソード」ですね。
 ちなみに、川嶋あいさんは、東日本大震災の被災地の畑で「綿花」を作って復興につなげようという「Tatton プロジェクト」に、毎年、参加しています。

<写真 被災した宮城県南三陸町>



 では、「旅立ちの日に」の2番以降の後半の歌詞を紹介します。


♪「旅立ちの日に」♪


もう開けない 教室のドア 
向かい合えない 机も椅子も
週末にはよく遊んだね

時に夢中な恋も知って

絶えぬおしゃべり怒られた朝
泣いたあの日も覚えているよ

あなたがくれた冷めぬこの熱は
私の胸で生きづいている


今始まる 希望の道 今日までありがとうね
思い出の校舎と別れを告げ

今新たな扉開き はるかな年月経て
つぼみから花咲かせよう

耳元で聞こえる別れの歌を

溢れ出す涙こらえて
旅立ちを決めた仲間たちには

はかない調べが降り積もる

いつのまにか時は流れ もう今日は卒業の日
人はいつか旅立つ者だけど
いつの日にかまたどこかで会える気がするからね

輝く日々を忘れないで
今始まる 希望の道 今日までありがとうね
思い出の校舎と別れを告げ

今新たな扉開き はるかな年月経て
つぼみから花咲かせよう

つぼみから花咲かせよう♪


 川嶋あいさんは、本名「川嶋愛」さんで、1986(昭和61)年2月21日、福岡県福岡市の出身です。
 実のお父さんは、生まれた時から行方不明で、実のお母さんは産後の日だちが悪く、川嶋あいさんが3歳の時に病死したため、乳児院、児童養護施設で過ごしました。

 その後、裕福な川嶋家に養女として引き取られ、10歳の時には、ニューヨークのカーネギーホールで演歌を歌いました。

 ところが、彼女が10代の頃、養父も養母も次々と亡くなり、川嶋あいさんは、再び一人ぼっちになってしまいます。
 
 15歳で上京、渋谷などで路上ライブを1000回行い、CD5000枚を売り上げ、16歳の時に「I WiSH」のボーカルとしてデビューし、「明日への扉」がオリコン1位になります。

 17歳の時、渋谷公会堂のソロ・ライブで、「旅立ちの朝に」を歌う姿が「You Tube」に残ってい1ます。
 セーラー服で一所懸命に歌う、17歳の「川嶋あい」さんの姿を見ていると、実母と養父母、2度も親を亡くすなど、彼女に起こった不幸の数々を考え、胸が熱くなります。


<写真: 川嶋あいさんの路上ライブ(渋谷)>

 


 川嶋あいさんは今年、30歳になりました。
 I Wishのメンバーと結婚した親友の女性が25歳で病死するなど、彼女の周りには不幸が耐えませんが、それでも「つぼみから花を咲かせる」ために、国内外でシンガーソングライターの活動とボランティア活動にがんばっています。
 
 最後に、川嶋あいさんの著書「最後の言葉」(ゴマブックス)の中から、彼女のメッセージを紹介します。


「わかったことがある。
天命は変えられないけど、運命は変えられるんだって。

人は夢があるから成長するし、人生楽しくなる。
夢の前で立ち止まっていては何も始まらないよ。

ともかく一歩踏み出してみてください。
何かきっと変わるはず。
目指すものが大きければ大きいほど、その一歩の勇気は大きいはず。
でも、負けちゃダメ。絶対立ち止まってはダメ。
 
踏み出さなきゃ絶対何も変わらないって、今も胸に刻んでいることだ。」
(川嶋 あい)


 以前、1度だけ、川嶋あいさんのコンサートを見に行ったことがあります。
 すごくいいコンサートだったけど、残念ながら「明日への扉」も「旅立ちの朝に」も、歌ってくれませんでした。
 いろいろ事情はあるのでしょうが、やっぱりこの曲、少なくてもどちらかは、歌ってほしいとみんなが願っていると思います。

<一句>
旅立ちの 一歩が続けば 道になる